逃れの海峡 1
1.一夜限りの男
地下一階にあるガールズバーには、いつもの常連客が三人いるだけだった。いずれも四十代のサラリーマン。最初はバイトの女の子五人で代わる代わる喋っていたが、途中から朱音と諒子が外れてグラスを磨き始めた。
「朱音って、おじさんはあまり好きじゃないんでしょ?」
横でグラスを磨いていた諒子が耳元で囁く。朱音を客の前から引っ張ってきたのは諒子だった。
諒子のいうとおり、あの手の客は苦手だ。
「好き嫌いの問題じゃないの、仕事よ仕事。勝手に拉致しないでくれる? バック入んないじゃない」
客がおごってくれたドリンク代の半分がキャストに入ることになっている。つまり、稼ぎたければうまく客に取り入っておごらせる必要があるのだ。
突然、冷たい風が入ってきて、暖房の効いた店の空気をかき混ぜた。
顔をあげると、背の高い男が視線を左右にめぐらし、店内を見回している。
「いらっしゃいませ」
バーは暗く客の顔の表情は見えない。
「こちらへどうぞ」朱音が声をかけると、客がスツールに腰をかけた。
カウンターを挟んで柔らかく微笑むと、客の男がぎこちなく微笑んだ。
艶のある黒髪に浅黒い肌。薄い唇。服の上からもわかる筋肉質な身体とスラッとした長い手足。目はくっきりとした切れ長の二重で、スッと筋の通った鼻は、スラブ系を思わせる。
見つめているだけで眩暈が起きそうになる。吸い寄せられるような魅力的な男だった。
横にいる諒子が肘でついてきた。
「ご注文は何になさりますか?」
焦りが顔に出ないように営業スマイルを浮かべる。
「バーボンあるかい? 強いのがいいな。ワイルドターキー、あるかい?」
「はい、ございます」
「じゃあ、ロックで」
グラスに氷の球を浮かべ、バーボンを注ぐ。照明を浴びて、虹のような光りを放つ。
カウンターにおかれたグラスを、男が口に含む。
「お客さん、この店は初めて?」
「ああ。六本木を歩くのも実は初めてなんだ」
「東京の方じゃないの」
「大阪からきたんだ」
関西の客はここでは珍しい。
引き締まった体型はいわゆる細マッチョというやつだ。目を細めて口角を少し上げた優しい笑顔も魅力的で、語彙力があってユーモアセンスも高い。
気になったのは、自分のことはほとんど話さないことだ。何をしているのかと聞くと、自由業とだけ答えた。彼が自分について話したことは、大阪から来たというだけ。しかし、言葉に関西訛りはまったくなかった。
店が混んできた。他の客の相手をしながら、時折盗み見たりした。彼はひとりで静かに飲んでいた。
二十分ほどして、ようやく彼の前に戻ることが出来た。
「いい店だね。キャバレーのような猥雑な店じゃないし」
「ガールズバーって、こんなものよ」
「君は何時に出られるんだい?」
男は優しく微笑むだけで、表情を変えなかった。
「出られるって?」
「仕事が終るのは何時なんだい?」
「もしかして、口説いてるの?」
「ああ」
胸が高鳴ってくる。男がタバコをくわえたので、慌ててライターの火を差し出した。
ここはスナックじゃないのに。
「今日は十時までの予定だけど」
壁にかかっている時計を見た。もう十時は過ぎていた。薄暗い店に、数人の客が残っているだけだった。
「じゃ、出ようか」
「やっばり口説いてるんだわ」
「外で待ってるよ」
男はタバコの吸殻を灰皿に押し付け、スツールから立ち上がった。
強引な男。でも、胸の鼓動はまだ止まない。
店長に上がりますといって、支度部屋に向かった。制服を着替え、ブラウスとジーンズのラフな格好で出勤したことを後悔した。
朱音はカーディガンを羽織って階段を上がる。男の姿が見えない。
後ろでクラクションが響いた。路肩にメルセデスが停まっている。オープンカー仕様の黒のSLだった。
ウィンドウ越しに、男が左手をあげた。車内で微笑むと、ゆっくりと朱音に寄ってくる。車が朱音の横でとまった。モーターのうなる音。ウィンドウガラスがドアの中に消えていく。
「どうぞ」
男が、また微笑んだ。襟元からのぞく肌が広かった。逞しい男の身体に、胸がまたキュッとした。
ドアを開き、助手席に滑りこんだ。不思議なくらい、身体にぴたりとフィットする。
「うわ、このシート、なんか変」
「セミバケットシートだよ。オプション品でね」
固いシートだが、すわり心地がいいし、身体がぴったりホールドされてどこか安心感がある。
「飲酒運転ね」
「そう責めないでくれ」
「別に責めてないわ。私は警官じゃないから」
男が軽快に笑う。
「食事はすんだのかい?」
「仕事に出る前、サンドウィッチを食べただけ」
「いい店がある。深夜までやっているレストランなんだが、先に食事にしよう」
先に、ということは、その後もあるということだ。
夜景が良く見える、高台にあるレストランだった。
予約席の札がのったテーブルに案内された。柔らかい間接照明に照らされた店内は、停電時にろうそくに照らされる室内のように暗かった。窓から眠らない都心の街が見える。
もう十時半に近かったが、店内のテーブルの半分は埋まっている。全部が二人組の、しかもカップルばかりだった。耳障りな雑音を発する子供もいない。妙に静かな店だった。
対面にではなく、朱音の右側に男が座った。
矢矧啓次郎。
この店に来るまでに朱音が聞き出した男の名。本当の名前なのかどうかは知らないし、確認する気もない。今夜この男に抱かれることになったとしても、今夜限りの関係なのだ。
矢矧が、ウェイターが持ってきたメニューを開いて見せる。
「好きなのをどうぞ。俺は海老でも食おうかな」
イタリア語が並ぶメニュー。値段が書かれていない。かなり高い店のようだ。
「悪いわ、こんな高そうなお店」
「気にするなよ。君にご馳走するくらいの持ち合わせはあるよ。君、酒は強いのかい?」
「仕事柄普通にのめるけど、それほど強くもないわ」
「じゃあ、ワインにしておくか」
朱音は前菜と肉料理のメニューから、ナスと冬瓜と海老の温野菜サラダ、仔牛のリブローストを選んだ。矢矧は朱音と同じ前菜と、オマール海老の黄金焼きを選んだ。
朱音の隣の空いたテーブルの向こう側に、五十代の男とまだ二十代の女が食事をしていた。男の右手がときどきテーブルの下に消えて、妖しく動いた。
夫婦にも見えなくはないが、そうじゃないだろう。
「ああいうの、俺はあこがれるけどね」
矢矧も横のカップルを見ていた。
「意外と普通の男なのね」
「君はいいと思わないのかい? 気心の知れたカップルが、人の目を盗んで悪戯をしあうんだ」
「お金で買われた女の子かもしれないわ」
「そうか……それだとつまらないな」
噴き出しそうになった。
「見知らぬ女の人とのほうが興奮するんじゃないの?」
「まあ、そうかもしれないけど、憧れにはならないな。俺は公衆の面前であんなふうに戯れても怒られない関係がうらやましいといってるんだよ」
「よくわからないわ」
「気にするな。俺の説明が下手なんだ」
朱音は、また隣のカップルを見た。男が女の太腿を撫でている。女は素知らぬ顔で、フォークに刺した肉を口に運んでいる。
「ああいうのが好きなのね」
「ううん……なんとなく、誤解されているような気がするな」
ワインが運ばれてきた。
「とりあえず乾杯しよう」
「何に?」
「決まり言葉通りだよ。二人の出会いに」
グラスを合わせ、ワインを口にいれた。少し渋いが、美味しいワインだった。
「江島さんと呼んだほうがいいかな」
「みんな朱音って呼んでるから、朱音でいいわ。あなたのことはそうねえ……」
「俺も啓次郎と呼ばれている。さん付けじゃなく呼び捨てでね」
「じゃあ、啓次郎って、堅気の人?」
彼が軽い驚きの目で見つめ返してきた。
「俺がやくざに見えるのかい?」
「そういうわけじゃないけど、なんとなく、普通の人じゃない気がする。つまり、普通に会社に勤めたり、お客さんに愛想を振りまいて商売したりする人じゃなくって、特殊な仕事をしてるって気がする」
「たとえば?」
「そうねえ。警察官、とか」
啓次郎が軽く笑った。
「じゃあ、飲酒運転は重罪だ。即、懲戒免職になってしまう」
「あら、警官が聖人だなんて思っていないわ。むしろ、一般人よりたちが悪い人種じゃない」
「そりゃ、そうだな」
料理の皿がテーブルに運ばれてきた。ウェイターの気配に隣の女が姿勢を正し、男が慌てて手を引っ込めた。
逃れの海峡 2
2.傷だらけの男
一時間後にレストランを出た。テーブルひとつあけて座っていたカップルは、いつの間にか姿を消していた。
「どこへ行くの?」
駐車場で車の鍵を開けている矢矧啓次郎に聞いた。
「君の部屋にしようか」
思わず足を止めた。彼の泊まっているホテルに誘われるものと思っていた。動揺を悟られたくなかった。心の中を隠すように、朱音は矢矧の腕に手を伸ばした。
啓次郎がベンツの助手席のドアを開けた。なんのためらいも見せずに乗りこんだ。子供じゃないのだ。
エンジンを始動し、啓次郎がゆっくりと車を滑らせた。
「どうして私の部屋に来たいの?」
「少しでも君のことが知りたいと思ってね。言葉を交わすだけじゃなく、生活の一部も見てみたいんだ」
「女の部屋で愉しむのが趣味なの?」
「趣味というより、いうなれば主義かな」
「啓次郎って、変わってるのね。一夜限りの女の部屋を見たいだなんて」
「一夜限りか。そうならないかもな」
「つきまとう気? あなた、ストーカーなの?」
「まさか」
一夜限りとは限らない。啓次郎のことばが気になった。朱音は彼の腕にかけた手に、かすかに力を籠めた。
意外に安全運転なんだと思っていると、啓次郎が急にアクセルを踏みこんだ。車の間を縫って、混雑した道路を抜けた。
「どうしたの、急に? 飲んでるんだから、パトカーに見つかるとやばいわよ」
「まあ、単なる習慣だ」
この男は、時々分けのわからないことを言う。
ベンツが再び安全運転に戻った。
北綾瀬駅から南に数分下った場所にある四階建てのビルの前に、ベンツが停まった。窓の外から、毎日利用している一階のコンビニエンスストアの中を見た。レジの前に客が並んでいるが、知った顔はいない。
「一番上の部屋よ。言っておくけど、エレべ-ターはないわ」
「気にするな、これでも健脚なんだ」
朱音が先に昇った。尻を見られているのか気になって後ろをチラッと見たが、彼の視線は下を向いていた。紳士的な振舞いに安堵するとともに、少しがっかりした。
四階で朱音は大きく息を弾ませたが、啓次郎の呼吸に変化はないようだった。
鍵を回してドアを開ける。ラベンダーの香りがもれ出てきた。消臭剤を新しいのに変えておいてよかった。
「適当に座って。ワンルームの狭い部屋で悪いけど」
部屋の三分の一をベッドが占領している。そのほかはテレビとテーブルと作り付けの洋服箪笥しかない。
「何か飲む?」
「いや」
啓次郎が上着を脱いで床に直に腰を降ろした。朱音は床におかれた上着をハンガーにかけ、彼のそばに腰を降ろした。膝が触れ合った。
「ここに何年住んでいるんだい?」
「もう六年になるわ。大学に入学してからずっとここにいるの。家賃が安い割に都心へのアクセスがよくって便利だから」
「綺麗な部屋だ」
啓次郎が視線を回している。
「言っとくけど、男なんていないわよ」
「別に、ほかの男の気配を探しているわけじゃない」
「シャワー、浴びてきてもいい?」
「いや、そのままがいい」
「もしかして、匂いフェチ?」
「女の生の匂いが好きなんだ」
「いやよ、恥ずかしいわ」
啓次郎が笑い、朱音の背中のファスナーに手を伸ばした。ファスナーが降ろされる。朱音が膝立ちになって手をあげると、彼が頭からワンピースを抜いた。
下着は上下とも黒だった。胸にブラジャーが食いこんでいる。朱音が慌ててリモコンで部屋の明かりを消した。
朱音が啓次郎のシャツのボタンをはずしていく。彼がブラジャーのホックをはずし、肩紐の一方をずらした。豊かな乳房が押さえを失い、ゆれた。解放感が心地よかった。首筋を這う彼の指の腹がしっとりと湿っていた。
男のシャツを脱がせて胸に指先で触れる。胸は硬くて分厚い筋肉に覆われている。腹筋の切れた腹をしている。
「これ、何?」
腹にいくつもの傷跡があった。何かで切ったような傷だった。
「誰かに刺されたことあんの?」
「まさか」
彼が唇を重ねてきた。舌が侵入してくる。情熱的なキスだったが、余計なことを朱音に喋らせないために口を塞いだんじゃないかと勘ぐりたくなるようなタイミングだった。
唇から離れた口が、朱音の淡い乳首をふくむ。ざらりとした舌で転がされていると、自然に声が漏れた。
激しく息を吐いたが、声を漏らさないように意識する。隣の部屋に聞こえてしまう。
朱音の声にならない声が、部屋に響く。
啓次郎の身体を抱きしめた。大きく逞しい胸。腹には脂肪がほとんどない。これからこの男に抱かれるのだと思うと、胸がときめいてしまう。
手を伸ばして彼のベルトをはずす。ズボンの下で、準備は出来ていた。
「ねえ……ベッドに連れて行って……」
啓次郎は朱音を軽々と抱え上げると、そっとベッドの上に降ろした。彼のトランクスの前が大きく膨らんでいる。静かに眼を閉じた。
一枚残っていたショーツが剥がされる。啓次郎が覆い被さってきた。彼の舌がふたつの乳房を這い回る。そしてゆっくりと下に降りてきた。穏やかに盛りあがった下腹部をさまよった後、へそのくぼみに舌が侵入してきた。くすぐったくて、思わず身体をよじった。舌の先端が円を描くように脇腹を這い回り、朱音は思わず腰をつきあげた。
彼の舌がさらに下に降りようとした。
「ちょっと待って、それ以上は駄目」
「どうして?」
「だって、シャワー浴びてないわ」
「俺がそうしてくれといったんだ」
無理やり足を広げられ、朱音は小さな悲鳴を上げた。啓次郎の前にすべてが曝け出されている。そう思うと胸の鼓動がいっそう高まり、身体が熱くなった。
大学に入って初めて付き合った男に頼まれて、部屋の明かりを暗くすることを条件に性器を見せてやったことがあった。その男は開いたり引っ張ったり指を入れたりして、熱心に観察していた。性器を見せるなど、そのとき以来かもしれない。
そのときも胸がどきどきしたが、今感じている感覚は、そのときのものとは少し違う。
啓次郎の舌が性器を這い回り始めた。
「だめ……汚いから……」
いくつもの襞や縁の上を尖った舌先がゆるゆると刺激していく。彼の指が中に入ってきた。優しく侵入してきた指先が、肉の壁を丹念に刺激する。
思わず声を上げて仰け反った。慌てて右手で口を塞ぐ。声が我慢できそうにない。指で中を刺激されながら、舌先で敏感な先端を刺激された。手で塞がれた口から声が漏れる。
あまりの快感に我を忘れ、両腿で彼の頭を挟んでいた。それでも啓次郎は容赦なく朱音を追い込んでいく。
あ、来る……。
一気に波が押し寄せて、頭が痺れた。彼はなおも刺激し続ける。耐えられなくなり、彼の頭を押さえた。
「いったのか?」
その言葉に頷く。
「早く来て……」
仰向けになったまま両腕を広げると、啓次郎がのしかかって来た。
彼が腰の位置をあわせようとする。手を伸ばして彼に触れる。それは硬く熱く裂けてしまいそうなくらい膨張していた。
避妊具はつけていないが、中断したくなかった。そのまま入り口まで誘導してやる。
肉壁を押し広げながら、彼が入ってきた。強い圧力を感じる。啓次郎は朱音をすき間なく埋めつくしていた。
「キスして……」
「いいのかい?」
「いいから……」
自分から唇を重ねた。覚えのある自分の匂いがかすかに残っていた。
啓次郎が律動を刻み始めた。
先端で朱音の奥深くをついては引きもどす。押しこまれるときの抵抗に、脳がしびれる。
夢中になって逞しい体にしがみついた。結合部から湿っぽい音が漏れ、時折、お互いの体毛がざらりとすれる音がした。
啓次郎は朱音のポイントをすぐに見つけたようだった。啓次郎の巧みな動きに、朱音は快感の坂を一気に昇っていった。
慌てて手で口を塞いだ。それと同時に昇りめける。啓次郎に容赦なく腰を叩きつけられ、朱音は立て続けに達した。
ようやく動きを止めた啓次郎が朱音の身体を抱えて、繋がったまま仰向けになった。上になった朱音が逞しい胸に手を追いて上体を起こした。
腹だけではなかった。傷は胸、そして肩にもあった。
「いったいどうしたの?」
「昔、バイクで事故ったんだ」
急に下から突き上げられ、悲鳴を上げた。上体を起こしていられなくなり、彼の胸の上に崩れ落ちる。下から身体をがっしりと抱え込まれて激しく突き上げられた。経験したことのない鋭い快感に声を上げ、朱音はあっけなく達してしまった。
どのくらいの時間がたっただろうか。
最初の頂きに導かれて以降、何度達したのか、覚えていない。
果てるたびに腰骨から強い波が全身に広がり、快感と苦痛が何度も押し寄せた。
目を閉じて、口で呼吸をする。苦しかった。朱音の手が強く啓次郎の背中をつかんだ。
「もうだめ……終わって……」
朱音は啓次郎を見上げた。彼が眉を寄せて口を開いたままうなずいた。そして、深く差しこむと、小刻みなリズムを刻み始めた。
「中は……だめ……」
啓次郎は呻き声を上げると、素早く朱音から出た。腰を痙攣させて、朱音の上で熱い情熱を吐き出した。
下腹部に生暖かい感触。窓の外から、改造車のエンジン音が聞こえてきた。
逃れの海峡 3
3.情事の後で
朱音の下腹部の処理を終えると、啓次郎が横に崩れてきた。ふたりともしばらく動けなかった。
ふたりの荒い息が暗い部屋を満たしていた。
朱音が啓次郎に抱きついた。
最高のセックスだった。身体の相性がいいとは、こんなことを言うのだろう。彼の放った体液の匂いが漂ってきたが、不快には思わなかった。
「先にシャワー、使ってもいいよ」
「今はいい」
「じゃあ、私も」
啓次郎を抱きしめる腕に力をこめた。本当に逞しい身体をしている。
「堅気じゃ……ないよね」
顔だけあげて、啓次郎を見た。眼は開いていたが、朱音のほうを見ようともしない。ただ黙って天井を見つめている。全身の傷跡。事故で出来た傷じゃない。眼にした傷のいくつかは、刃物によるものだった。この男、かなりの修羅場を潜り抜けてきている。
「別にいいよ、言いたくなければ言わなくても」
逞しい胸に顔を埋める。どうせ、今夜限りの男だ。
「地下格闘技なんてものに身を投じていた頃もあった。ガキの頃だが。身体の傷の半分は、その頃のものだ」
地下格闘技。そんなものがあることは聞いたことはあるが、どんなものなのかは知らないし、興味もない
「後の半分は喧嘩かな」
「刃物で切りあうのは喧嘩とは言わないわ」
「大阪のミナミの歓楽街のあちこちの店で用心棒をやっていた。所属していた格闘技団体の仕事の一部だったんだ。試合だけじゃ食えなかったからな。みかじめよこせなんて店に言いがかりつけてくる奴を追っ払っていた」
「やくざだったの?」
「いや。だが、関わりはあった」
歓楽街にみかじめに用心棒。朱音の勤めている店の周囲にも、そんな話は出てくる。
頭の中で警報が鳴る。関わってはいけない男。女を不幸にする男。店で見たときからそんな匂いは漂っていたのに。
「ねえ、聞いてもいい?」
「なにを?」
「私とセックスして、気持ちよかった?」
「ああ、最高だったよ」
「男って、どんなセックスが気持ちいいの?」
急に話題を変えられたからなのか、啓次郎が意外そうな顔をした。
「どんなっていわれても、どう答えていいか難しいな」
「行きずりの女とする場合と、恋人とする場合で違うの?」
「違うといえば違うかな」
「やっぱり、愛する相手とのほうが気持ちいい?」
「どうかな。行きずりの女のほうが新鮮って場合もある。しかし、相手で大きく変わるって事は、男の場合は少ないかな。長年連れ添った恋人と金で買った女と、それほど大きな差はない場合が多い」
「酷い話」
「女はどうなんだい? それを聞いて欲しくって、そんな話を振ったんだろ?」
啓次郎の逞しい胸に指を這わせた。
「女はやっぱり、好きな人と心をこめてするセックスの方が気持ちいいかな。好きな人が相手なら、別にいかなくても気もちよくなくても満足するよ」
「恋愛感情が入らない場合は?」
「さあ。私は好きでもない人とはしないから」
「今夜のことは?」
「抱かれたいって思った。たぶん、好きなんだと思う。恋人にしたいとか付き合いたいとか、そんな感情とは違うけど」
あなたはどうなの? そんな思いをこめて啓次郎を見た。その視線に気づいているのかいないのか、彼は口を噤んだままだった。
恋愛を語るタイプじゃない。しかし、まともな返答が返ってきていたのは意外だった。
突然、スマートフォンが着信を告げる音を奏でた。身体をよじってテーブルの上を見る。朱音のものじゃない。
手を伸ばしてスマートフォンを手に取った。液晶画面に安西と出ている。
啓次郎が朱音から受け取ったスマートフォンを耳に当てた。
「どうした?」
声にかすかな緊張感を感じ取った。啓次郎がベッドを降り、スマートフォンを耳に当てたままキッチンに向かった。逞しい後姿を眺める。ぐっと締まった腰とヒップに、胸がどきりとする。
「今夜か?」
そういって、啓次郎がベッドのほうを振り向いた。何か急用らしい。
わかった、すぐに行く。そういって、彼は電話を切った。
「帰るの?」
「ああ、急用だ」
そういって床に脱ぎ捨てていた下着を手に取って脚を通した。朱音はベッドの上に身体を起こし、彼が服を着るのを黙って見ているしかなかった。
これでお別れ。そう思うと、目頭が熱くなって来た。部屋が暗くてよかった。
「今夜はありがとう。楽しかったよ」
そういって、慌てて部屋を出て行った。朱音は玄関で見送ることも出来なかった。
逃れの海峡 4
4.裏社会の男
空のグラスの中で、氷の球が光っている。
「しっかりしろ、ア、カ、ネ」
尻を叩かれ我に返る。諒子が睨みつけていた。
「早くグラス洗え。溜まってきてるじゃん」
「わかってるわよ」
グラスの中の氷をシンクに転がし、グラスを洗う。
「あんたがそんなに未練たらたらになるなんてね」
「なってない」
「昨日からずっと上の空じゃん」
「うるさい。ちゃんと働いてるわよ」
「そんなにいい男だったの?」
「あんたも横で見てたでしょ?」
「まあ、いい男だったけど。それに、あの手の男はあっちのほうも立派なのを持ってるようだし。で、よかった?」
「内緒」
「でも、堅気じゃないよ、あれ」
手を止めて諒子を見た。
「見りゃ、わかるわよ。あんたの倍以上、男知ってんだから」
二人組の客が帰っていく。相手をしていた女の子が、外まで見送りに行った。店にいる客は二人だけになった。
「やくざと付き合ったこと、ある?」
「やくざはいなかったわ。半グレならいたけど。でも、この前の男は相当やばいわよ」
「どう見てもやくざには見えなかったわ」
「あの鍛え方はやばいわよ。地下格闘技とかやってたんでしょ? あんなところ、やくざと不良の巣窟よ。一夜限りの関係でよかったと思いなさい。ああいう男が、女を不幸にするんだから」
諒子が慰めてくれていることはよくわかっているが、彼女の言葉を聞いているといらいらしてきた。
店のドアが開いた。思わず顔を上げた。四十過ぎの小太りの男だった。
諒子にまた尻を叩かれた。
十時を回った頃には、店から客がいなくなった。朱音はさっさと着替えて店を出た。
むくんだ足で階段をのぼり、地上に出た。
駅に向かう人たちの流れに乗って、足を引きずるようにして歩く。いつもどおりの仕事だったのに、足が重くてだるい。空気が膨大な量の水分を溜め込んでいて、重くて不快だった。空は厚い雲で覆われていて、低い雲に街の灯が反射している。
電車で帰る気分になれなかった。雨に降られてはかなわない。タクシーを捕まえようと大通りに出た。路上には客を待つタクシーが並んでいる。この時間、空車はいくらでもいる。
タクシー乗り場に向かっているとき、短いクラクションに背中を突かれた。振り向くと、十メートルほど離れた場所に停まっていた黒のアルファードがヘッドライトを消したまま、ゆっくりと擦り寄ってきた。
朱音の横でとまったアルファードの後部ドアが開いた。鋭い眼をした男がこちらを見ている。
「乗りな」
薄く冷たい眼に思わず足が竦んだ。素早く踵を返したが、既に男達に囲まれていた。店からつけてきていたのだ。
「大声、出すわよ」
「気の強い姉ちゃんだな。しかし、いくら騒いだって、ここにいる誰もが俺達と関わりたくないって思ってるんだぜ」
「私、もう帰るんだから」
「タクシーを探していたんだろ? 北綾瀬まで、送ってやるぜ」
顔から音をたてて血の気が引いていくのを感じる。この男は朱音の部屋を知っている。
「びびるんじゃねえよ。何もしやしねえから、顔貸してくんなよ」
二人の男が、朱音を挟みこんだ。周囲を見回す。逃げるのは難しそうだ。それに逃げたって、部屋を知られている以上、何をされるかわからない。
二人に押し込まれるように、アルファードの後部座席に乗った。朱音の左横に若い男が座った。車が路肩を離れ、三車線の道路の中央を巡航し始めた。
突然、右の男が朱音の上着のポケットを探った。
「何するのよ!」
男がスマートフォンを取り出した。隠し撮りしていたのがばれている。男がスマートフォンのスイッチを切った。
「江島朱音。フェリス出てんのになんでガールズバーなんかで働いてんだ?」
喉が粘ついた。震えそうになる脚に力をこめて堪えた。この男はこちらのことを調べ尽くしている。
「フェリスの出身者が全員お嬢様だなんて思わないで」
「そのようだな。俺ゃ、お嬢様よりあんたみたいな女のほうがタイプだぜ」
「私はごめんよ」
男が笑った。
「でも、妹はなかなか可愛いじゃないか。娘ふたりをフェリスにやるなんざ、さすが医者だな」
その気になればなんだって嗅ぎ付けてやるという、連中の脅しだ。
「私の家族に手を出したら承知しないから」
「矢矧啓次郎、どこに行ったんだ?」
朱音が男を睨んだ。男がいやらしく口角を上げた。
「奴といいことしたんだろ? 部屋を出るとき、どこに行くか言ってなかったかい?」
「あんたたちは?」
「訊いてんのは、こっちだぜ」
「知らないわよ。やることやったら、さっさと部屋から出て行ったわ」
車がスピードを上げた。男の横の窓の外に、暗闇に広がる都心の光が広がっている。高速道路を走っているようだ。
「あんた、奴に惚れてんのかい?」
「馬鹿いわないで」
「男に声をかけられたら、いつでもほいほいついていくのかい?」
朱音がまた男を睨んだ。相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。
「私だって、たまにはやりたいときくらいあるわよ。あの日はたまたまそんな気分で、偶然彼が声をかけてきただけ」
「今夜は俺が付き合ってやるぜ」
「ごめんだわ」
いきなり髪を強くつかまれ引き寄せられた。車内に朱音の悲鳴が響く。
「もしもこの先奴が戻ってきても、匿おうなんてするんじゃねえぞ。奴が現れたら俺達に知らせるんだ。もし隠したりしたら、さんざん輪姦した後に、証拠が残らないよう生きたまま東京湾の沖に沈めてやる。世に溢れてる行方不明者のひとりになるんだ。言っておくが、俺達が本気で死体を隠したら絶対にみつからないんだぜ」
男が手を離した。全身ががたがた震えてきた。堪えきれなかった。
男が上着の内ポケットから名刺を取り出して、朱音の胸ポケットに押し込んだ。
車が停まった。ドアを開けて、左側の若い男が車の外に出た。ドアの向こうの見慣れた風景が目に入った。マンションの前だった。
「着いたぜ」
「彼……何したの?」
「あんたには関係ないことさ」
「気になるじゃない。遊びとはいえ、抱かれた男なんだから」
「降りる気はあんのかい?」
「あなた達と何か揉めたの?」
「降りていいって言ってんだぜ。それとも、俺達と楽しむ気になったのかい?」
朱音は車を降りた。黒のアルファードがゆっくりと離れていく。やがて、赤いテールランプが闇の中に消えた。
身体の震えはいつの間にか止まっていた。