幻影と嘘の擬態 1
1
午前二時。
街灯に照らされる倉庫群。その隙間を埋めるように、畑が広がっている。そばに停めたバイクのエンジンが冷えるときの、カチカチという音が聞こえてくる。
街の明かりが、頭上を覆う分厚い雲を照らし出している。ぼんやりと光る雲を見ながら、阿久津遼は銜えたタバコに火をつけた。風下に立っていた伊達芳樹が舌打ちする。
「タバコはやめろよ、遼」
遼が伊達を見た。「簡単にやめられたら苦労はしねえよ」
「やめようなんて気はさらさらないくせに」
「そのうちやめるさ」
「せめて、学校で吸うのはやめろ。そのうち先生にばれるぞ」
「そうよ」突然、イヤフォンから鈴木梨花の声が聞こえてきた。「あんた、制服にタバコの匂いが染みついて臭いんだから」
うるさい女だ。
「クスリやるよりかはましだろ」
吸い殻を吐き飛ばし、靴底で吸い殻を踏み潰した。
「動いたぞ」
三島悠太の声がイヤフォンから聞こえてきた。
「取引を始めたようだ。相手は二対二で間違いない」
薬物の取引は一瞬で終わる。拳を守るため、革のグローブを手にはめる。
「終わったようだ。二人、そっちに向かっているぞ」
三島の声。遼と伊達は、そばの倉庫の陰に隠れた。
話し声が近づいてきた。二人じゃない。
街灯の下に男が三人現れた。
「三人だぞ」伊達が短く言う。
「嘘」っと梨花が短く叫ぶ。俺の方も信号は二人分しかないぞと、三島も戸惑っている。ふたりがマークしていない奴が混じっているのだ。
「近づいてくるぞ。どうする」
伊達がこちらを見ている。
「やるさ」
よしっといって、伊達がスタンガンを取り出した。
「お前の道具は?」
「素手でいい」
「ふたりとも引き返して」梨花が叫ぶ。「私と三島くんのマークが外れていたわ。想定外のことが起こったの、作戦は失敗よ」
「どうってことねえよ」常にすべての情報がそろっているわけじゃない。その場の状況に応じて臨機応変に判断する。
「駄目よ、勝手なことしないで」
「じゃあ、リーダーの芳樹に判断してもらおうぜ」
伊達のほうを見る。「やろう」伊達が迷うことなく判断を下した。
倉庫の陰から出て、三人組の前に躍り出た。三人の男が慌てて足を止めた。
「お前ら、誰だ」
男のひとりが睨みつけてきた。二十五、六歳。やくざに使われている、クスリ問屋の幹部。
「いい値で売れたか? 最近の卸相場はグラム十万くらいらしいじゃねえか」
遼の言葉に男たちの顔が変わった。
「どこのもんだ、お前ら」
三人がナイフを取り出した。
「強盗だよ。お前の持っているカバンを置いていけ」
「ふざけやがって、殺してやる」
男たちがにじり寄ってくる。「二人ともまだガキじゃねえか。かといって許してもらおうなんて思うなよ」
男たちがナイフを突き出して脅してくる。そのしぐさで、ナイフの使い方に慣れていないとわかる。
遼が踏み出した。その勢いに押され、男たちが後ずさりした。カバンを持っている男がナイフを振るった。ナイフの刃が服を切り裂く。皮膚には届いていない。
「しょうがねえな。これで正当防衛だ」
こちらを睨みつける男の懐に飛び込む。男の薙ぎったナイフの切っ先をかわし、鼻っ柱に拳を叩き込んだ。殴られた男が地面に倒れた。伊達も踏み出した。彼が残り二人を相手にする。遼は金の入ったカバンの強奪に専念することにした。
倒れた男の全身に靴先を叩き込んでいく。履いているのは安全靴で、靴先には指先を守るための金属の保護具が入っている。
靴先から男のあばらの折れる感触が伝わってきた。背後で、伊達が二人の男を引き留めている。スタンガンが火花を散らす音が繰り返し聞こえてくる。
腕に灼けるような感覚。振り返ると男が立っていた。ナイフで腕を切られたのだ。
伊達がやってきて、男にスタンガンの電極を押し荒れた。男がうめき声をあげ、地面に倒れる。
「すまん、止められなかった。大丈夫か?」
「どうってことねえ」
どうしたの、とイヤフォンの向こうで梨花が叫んでいる。
動かなくなった男の手からカバンを引きはがした。中を開ける。札束が十個。一千万。それをカバンから取り出し、服やズボンのポケットに押し込んでいく。
周囲に、伊達が動けなくした二人の男たちのうめき声が響いている。スタンガンの電圧は高めてあるはずだ。
上着を脱いで確認する。シャツの左袖が血で染まっているが大したことはない。
「よし、これでブツも手に入れたし金も取り戻したぞ」
取引相手の密売組織の仲間を装う。
「お前ら、こんなふざけたことをして逃げられると思うなよ」
カバンを持っていたリーダー格の男が呻きながら言った。
「じゃあ、捕まえて見ろよ」
「俺たちは相手が高校生だろうと容赦はしねえ」
驚いて男を見る。
「どういう意味だ」
「そのうちわかるぜ」
口を割らせてやる。ポケットからナイフを取り出した。
早くしろ、とバイクのエンジンをかけた伊達が背後から叫んだ。
幻影と嘘の擬態 2
2
カーテンの隙間から、雲一つない青空が見えている。昨夜の厚い雲はどこに行ったのか。
遼は布団から出てテレビをつけた。
ニュースキャスターが事件のニュースを流している。昨夜、駅で高校生が老人を三人刺殺した。働けなくなった年寄りは社会のお荷物だと叫びながら、老人たちを次々刺殺したらしい。犯人の少年は覚せい剤を使用していたとのことだ。
またか。最近では珍しい事件ではない。
全国の薬物事犯は十月になって三千件を超えた。特に少年少女の使用が増えているらしく、薬物使用が原因の殺人事件も頻発している。
タバコを銜え、火をつける。女性キャスターの訳知り顔のコメントに、吐き気を覚える。
次のニュース。密売組織同士の争い。少年二人が襲われて殺された。
煙を天井に振り上げる。襲われたのはクスリ問屋、襲ったのは問屋と取引している売人グループだ。
ゴキブリ同志、殺し合えばいいのよ。梨花の機嫌のよさそうな顔が目に浮かぶ。
昨夜の連中が警察に届けるはずはない。ひとり二五〇万の儲けか。昨夜の仕事は悪くなかった。
室内着のトレーナーを脱いで左腕のテープを剥がす。傷は浅かったが、傷跡は十センチほどある。テープで留めておかないと傷跡が開いてしまう。病院で傷を縫いたいが、こんな傷を見られたら、すぐに警察に連絡されてしまうだろう。
腹も刺されたが、防刃チョッキを着ていたので皮膚にまで刃が通らなかった。だが、腕を切られたのは油断からだ。地面に倒れた男を痛めつけるのに夢中で、後ろから飛びかかってきた男に気づかなかった。
今後の仕事に差し支えなければいいが。
シャワーを浴びる。昨夜飲んだウイスキーがまだ少し残っている。仕事の成功をひとりで祝ったが、酒臭いのはまずい。午前中には消えるだろう。せめて教師に気づかれないように注意しなければ。
テープを貼り替え、制服に着替える。二本目のタバコに火をつける。本数が増えている。制服がタバコ臭くなると、梨花に睨まれてしまう。
外に出た。太陽がまぶしい。晴天は苦手だった。自分の汚い部分が他人にさらけ出されてしまいそうな気がするからだ。
バスに揺られながら街の中を通過していく。他校の生徒が列をなして通学路を歩いている。今の若者の間では、薬物が大ブームになっている。売人があの手この手で販路を広げ、学校内にまで販売網が侵入している。あくまで統計上の話だが、あの列の中の何人かが確実に薬物に手を染めているのだ。クスリはファッションの一部。そう割り切っている奴もいる。
ガキは薬物の本当の怖さを知らない。遼は母親がクスリで壊れていくのを長い間見てきた。刑務所から出てきたとき、何と言ってやろうか。言っても無駄だ。刑務所から出てきたら売人がまた群がってくる。どうせまた数年娑婆にいたら中に入ることになってしまうだろう。無駄だとわかってはいるが、せめて、母親が出所するまでに一人でも多くの売人を消しておいてやる。
バスが停まった。同じ学校に通う生徒たちがバスを降りていく。バスを降りたら、またタバコを吸いたくなってきた。
学校へと延びる緩やかな坂を歩いていく。連れ立って歩く女子生徒たちの華やいだ声が、二日酔いの頭に響く。
「おはよう」
後ろから肩を叩かれた。二日酔いの脳が揺れ、思わず顔をしかめた。振り返る。梨花が怪訝な顔をした。
「朝から機嫌悪そうね」
「二日酔いだ」
「信じられない」
「昨日は飲みたい気分だったんだ。ひとり二五〇万の稼ぎだ。お前はうれしくなかったのか?」
「お金なんて、どうでもいい」
「じゃあ、お前の分け前、俺にくれ」
「いや」
「家が金持ちなんだから、金なんて要らないだろう」
「それとこれとは別、労働の対価よ」
「まあ、物は言いようだ」
「でも、今回のことは私と三島君のミス」
「気にするな。お前たちはよくやってくれている。お前たちがいなければ取引の日時や場所はわからなかったんだから。少なくとも俺にはお前たちの真似はできない」
「かばってくれるの?」
「まあな」
「腕、大丈夫?」
遼が驚いて梨花を見た。
「どうして知ってる?」
「電話で伊達君から聞いた。ナイフで切られて怪我したって。俺のせいだと言って落ち込んでいたわよ」
「口の軽い男だ」
「マークが漏れたのは私たちのせい」
「もういい。大したことはなかったんだ。俺がこうやっていつもどおり登校しているのがその答えだ」
「なんか、今朝は優しい……」
梨花が潤んだ目を向けてくる。
「気のせいだ。仕事がうまくいったから機嫌がいいだけだ」
梨花が遼の尻を蹴り上げた。
「調子に乗んな。優しい顔するとすぐにつけあがるんだから。それに、今朝、タバコ吸ったでしょ? 口が匂うわよ」
「酒とタバコと女は俺の必需品なんだよ」
「最低……」
梨花が早足で遼を追い抜いていった。
幻影と嘘の擬態 3
3
ホームルームが終わり、担任が教室から出て行った。クラスメートたちが席を立って教室を出ていく。
席を立った梨花が近づいてきた。
「さっきの数学問題、全然わかんなかった。解き方教えてよ」
「悪い、用があるんだ」
「嘘つけ」
梨花が足で軽く蹴る。
「パソコンには強いくせに、数学は苦手なんだな」
「数学なんて、一生懸命勉強しても将来何の役にも立たないわよ。本当に無駄。時間の浪費、青春の浪費よ」
「板書の回答を丸暗記しろ」
「適当ね。暗記科目じゃあるまいし」
「誰でもそう思うんだよ。でも、数学ほど暗記に頼れる科目はないんだぜ。俺は回答を丸暗記するだけで、数学はいつもトップテンなんだ」
「いい加減なこと言って。教科書やプリントと同じ問題、出るわけないじゃん」
「こんな感じの問題が出たらこうやって解くんだって覚えるんだよ。数学は応用問題のパターンもその回答パターンも、意外と限られているってわかるぜ」
「本当? 教えるの、面倒がってない?」
梨花の問いかけには応えず、カバンを持って席を立った。
「また屋上?」
「俺のルーチンなんだ」
「いつか先生にばれるんだから。じゃあ、先に行くね」
「まだ時間があるんじゃないのか?」
「買い物があるの。可愛いワンピースを見つけたの。売れる前に買わなくっちゃ」
「ワンピースなんて、これからは好きなだけ買えるさ」
「あんたは?」
「帰るのは面倒だからこのまま直接行くよ」
「一緒に買い物に行く?」
「遠慮しとくよ」
「ふん」
じゃあ、先に行くね。そう言い残して梨花が教室を出て行った。
やっとうるさい奴が消えた。遼は教室を出ると一人で屋上に上がった。
午後三時過ぎ。赤い夕陽の照り返しで紫色の雲が燃え落ちていくように見える。昼間の余熱を少しはらんだ風が通り抜けて行った。
もう十月なのに、空気はまだ夏の匂いを残している。今年の二月、つまり南半球が真夏の季節、南極の気温が十八度を超えたらしい。いくら夏とはいえ、雪と氷で閉ざされた南極でだ。そして日本では夏を通り過ぎて十月になってもこの暑さだ。地球は年々異常になってきている。
風が強くなってきた。タバコの火が消えないようにライターを手で覆いながら火を着けた。白煙が細く流れ、肺の中にタバコの味が流れ込む。
屋上に設置してある排気装置がくぐもった音を立てている。
吸い殻を指で弾いた。床に落ち微かな残り火を放つ吸い殻を足で踏み潰し、排水溝の方に押しやった。
昨夜はそこそこの儲けだった。それに、チェック漏れがあったが、四人の手際もよかった。三回目ともなると手慣れたものだ。だが、だからこそ油断は禁物となる。ちょっとした気の緩みが命取りになるのだ。
この街では、相変わらずドラッグが流行っている。今時の高校生に、違法薬物の使用に対する罪悪感などまるで無い。ドラッグの売買は洒落た小遣い稼ぎとスリリングなゲームを兼ねていて、中高生の間でちょっとした流行になっている。
この進学校も例外ではない。校舎内でも公然と薬物の取引が行われている。県内有数の進学校でまさかドラッグの取引が行われているなんて、親も教師は夢にも思わない。知らぬは大人だけだ。
そして、様々な密売グループが手を伸ばしてくる。街で知り合った学生を足がかりにして、密売グループは校内に販売路を広げていく。他校やOBと繋がる者から横流してもらう者、果ては暴力団と取引する者さえいた。
ドラッグの売買と使用が違法行為だと理解していても、周囲にいる友人達が気軽に手を出しているので、誰も深刻にとらえていない。今や若者にとって、ドラッグは手軽な気晴らしであり、眠気覚ましやダイエットサプリなのだ。
だから、深みにはまる者も珍しくない。
アルミホイルの上のクスリをライターであぶり、気化した煙を吸う。それがいけてる若者のスタイルだ。静脈注射は注射痕残る。ダサいジャンキーしかやらない。
遼たちは僅か四人の小グループで、そんな薬物を街に流している連中相手に戦っている。
梨花は薬物の売人を心底恨んでいる。得意のコンピュータを駆使して闇に潜む売人の情報を炙りだすのが彼女の役目だ。ダークウェブにダミーの取引情報を流し、接触してきた売人のスマートフォンに三島がプログラムしたウイルスを感染させるのだ。
三島は梨花と同じく、コンピュータを武器にしている。梨花がウイルスを感染させた売人のスマートフォンを特定し、得意のハッキングで売人たちの携帯電話を乗っ取り、取引の情報を引き出して遼や伊達に流している。正義のためという大義名分など、この男は必要としていない。ゲーム感覚で小遣い稼ぎをしているだけだ。
伊達は正義感の強い男だ。頭も切れるし決断力もある。リーダーの素養に恵まれているし、女にもよく持てる。それに、遼とは中学入学以来の親友だ。
下校時刻はとっくに過ぎていたが、家には誰もいない。帰ってひとり部屋にいるのもくだらない。だから、用のない日はいつも屋上にいた。三人の仲間以外の連中とは、表面的には適当に付き合っている。毎日同じことを喋り、人間関係を適当にこなすだけ。だらだらとした退屈な日常。時々、自分が馬鹿に思える時がある。そんな時はひどく虚しい。だから、たまに刺激は必要だ。退屈な日常を紛らわすために、売人たちをぶちのめす。
吐き出した白煙が風に散らした空中に消えて行くのをぼんやりと見つめた。眼下には薄青い暮色に沈んだ街が見えていた。貧素な商店街の明りがぽつぽつと灯りはじめている。
母親をジャンキーにしたのはやくざだった。やくざにいいようにもてあそばれ、捨てられた。自分の父親は誰なのか、遼は知らない。おそらく、父親もどこかのやくざなのだろう。典型的なスケコマシの顔だと三島に言われたことがあるし、自分でもそう思うときがある。もしかしたら、自分は母親のヒモだった男の子供なのかもしれない。
幻影と嘘の擬態 4
4
「火、貸してくれるかしら?」
そろそろ帰ろうか。そう思った時、突然背後から声をかけられた。
振り向くと、女子生徒が立っていた。
遼の知らない女子生徒だった。
いつからそこにいたのか。気配は感じなかった。
青白い肌。透明感のある瞳。肩にかかる程度の漆黒の髪。無機質なプラスチックのような独特の存在感。
妙に大人びた、しかし、どこか病的な、まるで幽霊のような少女だった。
遼は黙って自分のライターを差し出した。
「ありがとう」
細いがよく透るはっきりとした声だった。
彼女が慣れた手つきで自分のタバコに火を着けた。タバコを持つ細く綺麗な指に思わず目がいく。
この学校は生徒数の多いマンモス校で、一学年六クラスもある。それに、遼は学校の同級生にまるで関心がない。遼の知らない生徒がいても不思議ではない。
自分以外にこんな時間に屋上に来てタバコを吸う生徒が他にいるとは。しかも、女子生徒だ。
香草のような強い匂い。
自分の知らないタバコの匂いだ。
「変った匂いだな」
それまで黙ってタバコを吸っていた女生徒は、瞳をわずかに動かして遼を見た。その値踏みするような目に、イラっとした。
「海外のだから」
「どこのタバコなんだ?」
「フィリピンよ」
今時、タバコを吸う女子生徒は珍しくない。それは進学校であっても同じだが、こうまで校内で堂々と吹かす奴はいない。
「今日はどのクラブも部活が中止なのね」女子生徒が運動場を眺めながら、煙を吐いた。どうでもいいといった感じだ。
「テスト前だからな」
「学校の中には、もう誰もいないわね」
「まだ教師たちがいるさ。大声で悲鳴を上げれば飛んできてくれる。女子の悲鳴は空手部員やボクシング部員の拳より強力なアイテムだ。無実の男をたちまち極悪の犯罪者に仕立て上げることができる」
彼女がクスリと笑う。
「痴漢に間違われたことでもあるの?」
「いや。でも、痴漢に間違われた男を見たことはある。女の悲鳴で駅員が警官を連れて飛んできたが、警官は男の主張なんざ、まるで聞こうとしなかった。推定無罪って言葉、知ってるか? 法治国家の大原則が、この国では守られていない」
「本当の痴漢だったのかも」
「違うさ。そいつ、俺の目の前でずっとぼうっとしていたんだ」
「助けてやらなかったの? この人は犯人じゃないって証言してあげればよかったのに」
「トラブルなんかに巻き込まれる奴が悪いのさ。外でぼんやりしていたら、殺されたって文句は言えない。日本人は平和ボケしすぎているんだ。常に気を張り詰めていないと。油断している奴が悪いんだよ」
女子生徒がちらっと遼を見た。
「ここでこうやってあなたと二人でいるのは、私が油断しているからかしら」
「さあな」
「私にひどいことしたら、あなたはその倍返しを食らうことになるわよ」
「怖いな。俺は暴力が大嫌いなんだ。穏やかに行こうぜ」
女がまたクスリと笑った。
ふたりのタバコの煙がり風に流されていく。遼は自分の吸い殻をコンクリートの床に捨て、踵でもみ消した。タバコの小さな火の粉が風にかき消されていく。
彼女がこちらを見ていた。
「逞しいのね」
「はあ?」
「体、鍛えてるの? 部活をしているわけでもないのに」
「どうして部活をしていないと思うんだ?」
「放課後に部活なんてするタイプには見えないから」
彼女が遼の左腕にすっと手を伸ばした。
「触ってもいい?」
「かまわんよ」
「悲鳴、あげないでね。痴漢に間違われたくないから」
思わず、笑ってしまった。
彼女が腕をつかんでくる。昨夜の傷に痛みが走ったが、表情は変えなかった。
ふと、彼女から自分と同じ匂いがした。
「ありがとう」そう言って、女がまた運動場のほうを向いた。
「じゃあな」
昇降口まで戻って、一度振り向いた。彼女は夕空をバックに柵にもたれてタバコを吸っていた。その姿はまるで幻のように見えた。
まるで、本物の幽霊のようだ。
数年前、この屋上から飛び降り自殺した生徒がいた。薬物中毒で、ひどい鬱状態になっていたらしい。
何を馬鹿なことを。
遼は、自分の下らない妄想を吹き消すとタバコとライターを制服の内ポケットに忍ばせて階段を下った。