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幻影と嘘の擬態 14


14

 あれから一週間たったが、波多野の姿を校舎で見かけることはなかった。
 屋上にも彼女は姿を見せず、廊下でも擦れ違うこともなかった。
 昼休みに教室を覗いてみたりしたが、見当たらなかった。
「彼女、ずっと休んでるみたい」
 梨花も波多野のことを気にしているようだ。E組の女子に聞いてみても、なぜ波多野が学校を欠席しているか知らなかったらしい。もともと一学年上の生徒だった彼女には、クラスに親しい友人はいないらしい。
 警察に捕まったのだろうか。それとも売人グループ間の諍いに巻き込まれたのだろうか。

 テスト前なので、授業は昼で終りだった。
 遼は額の汗を拭った。空からは容赦無く白い太陽が、熱と光を降らしている。熱量を吸収したアスファルトは靴底の下からも熱を伝えてくる。遼は目を細めた。一瞬アスファルトが熱波のために揺らぐ。
 陽炎が立ち上り、地面近くの風景が歪んだ。摂氏三十度。十月にはありえない気温だ。
「熱いな」伊達が汗をぬぐった。
「こりゃ、異常気象だよ」三島もうんざりした顔で空を見上げる。
 学校の近くのショッピングモールに入った。一階のフードコートの隅の席に、梨花が先に来て座っていた。冷房が効いた店内は快適だった。
「ここは天国だよ」三島が席に座って、汗をぬぐいながら買ってきたコーラを喉に流し込む。
 警察が動いているよ。コーラのストロ-から口を離した三島が言った。
「今夜、取引がある。罠じゃないとは言い切れないが、警察も動いているらしい。もうすぐ手入れがあるってのは確かな話だったから。でかい所をパクるつもりで警察は張り切ってるんだ」
「慎重になったほうがいいな」
 遼の言葉に梨花が黙って頷く。いつもなら頭に血が昇っているはずの彼女も、今日は冷静だ。波多野の一件があってから、ずいぶんおとなしくなっている。
「情報は当てにできると思うよ」
「私も三島君の言うとおりだと思う」
 三人が伊達を見た。
「実行だ」
 伊達の言葉に三島も梨花も意外そうな顔をした。遼も驚いた。伊達が中止を決定すると思ったからだ。
「珍しいな。慎重派のお前が」
 伊達が遼を見て意味ありげに笑った。
「勝算大いにありだからな。今回は罠じゃない。警察が踏み込む前に金を奪う。警察が連中を押さえようとするどさくさに紛れてその場を離れる」
「そううまくいくかしら?」
「少なくとも、俺たちは警察にマークされていない。やばくなれば金を捨てて逃げる」
「ま、今まで伊達くんの言うことを聞いて、損はしてないからね」
 梨花がすぐに同調する。
「あと、オレたちの抜け駆けをした連中なんだけどな。かなり大きなグループのようだ」
 三島の言葉に、梨花が遼を見た。
「上手く姿を隠しているからよくはわからないんだけど、警察が狙ってるのはそのグループらしいんだ」
 遼は梨花に気づかれないように唾を飲み込んだ。波多野の所属している組織だ。
「今夜やってくる連中がそうなのか?」
 遼は慎重に努めて冷静さを装って訪ねた。
「わからない。別の組織かもしれないが、警察に目を付けられているのは確かだよ」
 波多野は知っているだろうか。警察の情報を盗むには三島クラスのハッキングの技術が必要だ。
 とりあえず今しなければならないのは波多野に伝えることのはずだった。
 遼は彼女の電話番号もメールアドレスをも知らない。だが、たとえ知らせたとしてもどうにかなるのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。

幻影と嘘の擬態 13


13

 寄り道もせず、まっすぐに部屋に帰った。
 ひとり部屋にいる気にもなれなかったが、外をふらつく気にもなれなかったのだ。
 物心ついたときから、父親は家にはいなかった。母親は遼が高校合格と同時に刑務所に入った。懲役三年。覚せい剤使用の前科があったので、執行猶予はつかなかった。
 万年床の布団に寝ころぶ。
 波多野はこの先どうするつもりなのだろうか。
 バイヤーを続けていればいつか逮捕されてしまう。元ジャンキーが完全にクスリを断つのは難しい。その事実がひたひたと水のように自分に寄せてくる。
 とりとめもないことが浮かんでは消えていく。どこかに逃げたくなる。
 布団から起き上がり、カーテンを開け、窓の外を見た。やや西に傾いた太陽がまだ禍々しく輝いている。
 ドアがノックされた。慌てて玄関を振り返った。
 まさか、密売グループがやってきたのか。
 引き出しからサバイバルナイフをとりだし、服の下に隠すと、ドアに身を寄せ、耳を澄ました。
「私よ。早く開けて」
 梨花か。ドアのロックを下ろす。
「ずいぶん遅かったのね」
 玄関に入って後ろ手にドアを閉めると、彼女が睨みつけてきた。白のスカートにベージュのブラウス。ピンクのカーデガンを羽織っている。気が強いが、梨花は清楚に見える格好を好む。
「もしかして、外で待ってたのか?」
「覗きに来て、いなかったので本屋で時間潰してた」
「電話すりゃ、いいじゃねえか」
「別に大した様じゃないし」
「大した様でもないのに、時間つぶしまでして部屋に押しかけてきたのかよ」
 キッチンが三畳、リビング兼寝室が六畳の間取り。ひとり暮らしにとっては別に狭くもないが、梨花が部屋に来たときは少し狭く感じる。とくに、気がたっている彼女とこの部屋にいると、圧迫感すら覚える。
「何かあったのか?」
 遼の問いかけには応えず、彼女がカーデガンを脱いだ。続いてブラウスに手をかけ、ボタンを外していく。
「お、おい」
 ブラを外し下着から脚を抜くと、裸体を遼に向けた。
「何のつもりだ、いきなり裸になって」
「どう、私の身体。魅力的でしょ。明るいところでじっくりと見せたことないから、見せてあげるわ」
 明かりの下で裸を見られるのを、梨花はいつも嫌がる。だから、彼女を抱くときはいつも部屋を暗くしている。
「胸だって、クラスで一番大きいのよ。腰だってこんなにくびれているし、お尻もたれてない。肌には染み一つないわ。たぶん、学校で一番いいプロポーションだと思う」
「自己賛美の精神に目覚めたのか? たしかにお前はいい女だが」
「本当にそう思ってる?」
「ああ」
「波多野さんより?」
 遼が言葉に詰まった。梨花の目から涙がこぼれた。
「彼女、胸もないし、服脱ぐとあばらが目立つくらい痩せてるし、顔色だって悪いわ。一年ダブってるから私たちより年上だし、たぶん、クスリもやってる」
 涙を拭おうともせず、梨花がまっすぐ遼を見ていた。
「彼女と屋上で何を話してたの?」
「大したことじゃない。屋上に上がったらあいつが一服していたから、一緒にタバコを吸っただけだ」
「この前も、その前も? 私、知ってるのよ。あんたが彼女に会うために屋上に行ってるの」
「俺は毎日校舎の屋上でタバコを吸ってるんだ」
「今まではタバコ吸うため。でも、少し前からは彼女に会うために屋上に行ってたわ」
 梨花は鋭い女だ。こうなると誤魔化しは通用しない。
「あいつはクスリのバイヤーだ」
 梨花が目を見開いた。
「俺の正体も知っている。昨日の取引でジャンキーの売人からクスリを買ったのはあの女だ。お前たちのことを知ってるぞという彼女のメッセージだよ」
 梨花が体をこわばらせている。彼女に近寄り、指で涙を拭ってやる。
「大丈夫だ。あの女は誰にもしゃべらない。確証はないがな」
「これからどうする気?」
「さっきまでそれを考えていた」
 クラスで一番大きいという梨花の乳房に触れた。
「やろうぜ、せっかく裸になったんだ」
 そのまま梨花を布団の上に押し倒した。
 警察に捕まるような奴は、初めからクスリになんか手を出すんじゃない。いつもの遼なら鼻で嗤っているところだ。
 これからどうするか。そんなことは波多野の考えることだ。彼女をどうするかなど、おせっかいを焼く必要などない。
 突然、梨花が大声を上げた。彼女の奥を突きながら、足首を持って脚を持ち上げ、指先を口に含んだ。
「ちょっと、汚いよぉ……」
 梨花が身を捩る。同じリズムで奥を突く。彼女の甘い喘ぎ声が、大きく短くなっていく。
 波多野が逮捕されるのを、黙ってみているつもりなのか。
 いや、そんな甘ったるいことを言っている場合じゃないかもしれない。遼たちのせいで売人グループの間で諍いが続いている。グループ間の諍いを避けるために、彼女が遼のことを他の密売組織に売らないとも限らない。
 梨花が大きな声を上げて果てた。そのまま構わず突き続ける。同じリズムで攻め続けると、すぐに彼女に二度目の波がやってきた。
 警察と密売グループの動きを、三島に探らせる必要がある。
 大声を上げて、梨花が立て続けに果てた。息を切らしながら、潤んだ目でこちらを見ている。
「もうだめ……無理……そろそろ終わって……」
 梨花がギブアップした。遼は彼女の上に覆いかぶさり、ラストスパートをかけた。

幻影と嘘の擬態 12


12

 あのバイヤーからクスリを買ったのは一体だれだったのか。
 伊達に召集されて集まった校庭で、誰もが口を噤んだ。
 遼も首をひねって見せた。黙ってはいたが、波多野が絡んでいることを確信していた。
 昨夜金を奪った後、伊達に詰問されたが、何とかはぐらかした。いや、伊達が許してくれたといったほうがいいだろう。遼が何かを隠していることに、伊達はもう気づいている。
 こいつとは長い付き合いなのだ。
 標的をとらえられなかったことで、三島は皆に平謝りし、梨花は苛立っていた。こちらのマークを外れていた得体のしれない組織に、誰もが不安を隠しきっていない。
 たしかに、灯台下暗しだ。その組織に属しているものが、この学校にいるのだから。
「俺たちのことを知っている奴がいる」
 遼の言葉に、梨花が眉を潜めた。
「だったら、もっと本格的に襲ってくるわよ」
「そうしないのは何か理由があるんだよ。状況がはっきりするまでしばらく手を引いたほうがいい」
「嫌よ」梨花が三人を睨みつけた。
「金なら稼いだだろう。昨日だって一人当たり十数万の稼ぎだった」伊達の言葉に、梨花が顔をしかめる。
「お金のためなんかじゃない。クスリを売る連中に痛い目を合わせなきゃ」
 梨花がクスリの売人を恨んでいるのは、全員知っている。
「明日、でかい取引があるんだけど、どうする?」
 三島が恐る恐る皆を見た。やるわという梨花に、遼が舌打ちをする。
「あんたたちが怖いなら私が強奪犯に加わってあげるわよ」
「いっただろ。お前じゃ役に立たない」
 遼の言葉に、彼女が怒りで顔をほのかに赤く染めた。
「問題はこちらが連中の正体を全く知らないということなんだ。それに対し、連中はこちらのことを知っている可能性がある」
「どうしてそう思うのよ」
「抜け駆けしたんだ。こちらの動きを知っていたかもしれない。しかし、情報が漏れたとは思えない」
「当り前よ。私たちがそんなへま、するわけない」
「だが、動きを読まれていた。次は罠かもしれない」
「罠なら気づくわよ。昨日のことだって、結局罠じゃなかったんでしょ? 怖がり過ぎ」
 こうなると梨花は引き下がらない。
「連中の動きで実行か中止かを判断する。昨夜のことは、結局は成功したんだ。次に目を向けよう」
 伊達が最後を締めた。そうよという梨花。
 ちょうど予鈴が鳴った。

 空には雲がゆっくりと流れ赤光が差している。
 放課後。
 教室から出て階段を降りてくる生徒に逆らい、遼は階段を上がった。
 行くのはどうもはばかられた。だが結局遼は屋上に上がっていた。
 波多野はもう来ていて例の匂いの強いタバコを吸っていた。
 色々とややこしいことになっているのにも関わらず、波多野のそんな姿を見ると、心臓に心地よい鼓動の速さが訪れる。
 タバコを取り出し火をつける。遼は自分自身に恐ろしく似合わない感情が存在するのに、いささか戸惑いを覚えた。
 波多野が遼の方にゆっくりと眼をやり首を少しかしげた。波多野は遼の顔を探る様に見つめた。その後ふいに風景に眼を転じた。
 先日取引の場面を目撃されたことは、遼を襲った仲間たちに聞いて知っているはずだ。
「あなたは、退屈じゃないの?」
 突然、波多野が話しかけてきた。彼女の表情に特に変ったものはない。いつもの無表情。今まで波多野から話しかけてきたことはなかった。
「そりゃ、どういう意味だ?」
「手軽な刺激が欲しくないかってこと」
「クスリでも売ってくれるっていうのか」
「欲しいなら……あるわよ」
「俺がヤクをやりそうに見えるのか?」
「あなたみたいな顔をしたのがよく買いにくるわ」
 波多野は、あっさりと自分が売人であることを告白した。
「いいかげん、やめた方がいいぞ。バレたらヤバイし、暴力団に睨まれることだってある」
「いつから私の正体に気づいていたの?」
「初めてこの屋上で会った日かな」
「嘘」
「左腕の傷を確認された。その前の日、俺は売人とやり合って怪我をしたんだが、お前はそれを知っていたんでな」
「へえ、思った通り、鋭いのね」
「それに鼻も利くんだよ。お前は俺と同じ匂いがした」
 波多野が遼を見た。微かに感情の宿った目。しかし、それがどんな感情なのかわからない。
「お前も俺のことを知っていたはずだ。どうして仲間に言わなかった?」
「さあ」
 彼女が誰もいなくなった校庭を見ながらタバコの煙を吐き出した。
「じゃあ、私が筋金入りのジャンキーだったってのは知ってた?」
 波多野は皮肉っぽい表情で言い捨てた。顔色が悪く痩せ気味。なんとなく、そうだったんじゃないかとは思っていた。
「ドラッグは中学二年生くらいからやっていたの。最初は遊び半分だったけど段々深みにはまって気づいたら手放せなくなっていたわ。ドラッグを通じて知り合った男と同棲して、中学卒業の頃には廃人寸前になってた。なぜか無性に暴力を振るった。幻覚が見えるのよ。人間が何か菌のかたまりに見えるの。その男に熱湯をかけてね。そいつ大火傷した。それがきっかけで親に居場所がばれて病院に入れられたの」
 波多野はそこまで言うと新しいタバコを銜えた。
「病院に送られても暴れたり幻覚を見たりした。禁断症状は苦しかった。体の中の内臓とか全部吐き出すみたいな気分になるの。それだけじゃなくて頭痛とか手足が突然痺れたりしてね。とても痛みに耐えられなくて壁をかきむしったり頭を打ちつけたりした。爪を剥がしかけたこともあった」
 波多野は奇妙な薄い笑みを浮かべた。
「でも何とか生きて出てきて高校に入った時、一緒にドラッグをやってた友達が二人、死んだのを知ったわ。一人はやりすぎの中毒死でもう一人幻覚を見て階段から落ちて死んだの。高校でもフラッシュバックが起きてちょっとした口喧嘩しただけの相手を刺しちゃって今度は保護監察。ざっとこんなものね。あんまり面白くはないでしょう」
 遼は運動場を眺めながら黙って波多野の話を聞いていた。
「ドラッグでそんな目に合わせられたのに何でバイヤーなんかになったんだ。クスリ目当てか? それとも金目当てか?」
 遼には波多野の投げやりな態度の底に、静かな諦めの様なものを感じた。遼にはそれが自分をいいようもなく惹き付けていたように感じた。
「フラッシュバックなのよ。きっと。クスリを売ることは不特定多数に暴力を振るうことだから。時々思うわ。私達は確実に何人かの人間を廃人にしているなって」
 疲れがどっと出たようなうつろな顔。それは空気を濾して奇怪な明るさをももたらしていた。
「それが、楽しくて仕方ないの。狂っているんだわ。私は」
 波多野はぽつりとそう言って、火をつけたばかりのタバコを捨てて、遼に背中を向けた。遼は波多野の瞳を意識しつつ振り返らなかった。
 彼女がこの場から去ってからも、遼は一人残って誰もいない校庭を眺めていた。

幻影と嘘の擬態 11


11

 分厚い雲が空を覆っている。
 雨が降るかもしれない。
 部活帰りの学生や勤め帰りのサラリーマンたちで、電車の中は混んでいた。こんな時間に強盗するなど、初めてだった。
 三島と梨花の情報だと、取引の場所は高校のある駅から二駅の場所だ。
「大丈夫なのか?」
 伊達が青く痣になった遼の顎を見た。
「派手にやられちまった」
「お前を狙っていたのか?」
「いや。俺の行動が気に入らなくて、尾けてきて襲ったって感じだった」
「何が連中の気に入らなかったのか、心当たりはあるのか?」
「いや」
「それにしても鈴木の奴、お前のその顔を見て随分取り乱していたな。本気で心配してるって感じだったが」
「気のせいだよ、あいつはそんな女じゃない」
 遼の痣だらけの顔を見た時の、梨花の青ざめた顔が頭の中でよみがえった。
 尾けてきたのはおそらく、波多野の仲間だ。波多野を尾けてくる奴がいないか、連中が見張っていたのだ。連中の報告は波多野に行くだろう。波多野は自分を尾けていたのが遼だとわかるはずだ。
 今後、波多野がどう動くだろうか。
 遼は密売グループから強奪した金で何をするでもなくただ貯金をしていた。自分の中ではいざというときの逃亡資金にするためだと理由付けしていた。
 波多野の態度によっては、この街を離れることになるかもしれないな。
 途中で、雨が電車の窓を叩き始めた。
「振ってきたか」伊達がうんざりした顔で窓の外を眺めた。
 他の学校の生徒やOLやセールスマンと一緒に駅に降り立つと、湿った空気が周囲を包む。
 風が生ぬるい。久しぶりの雨のため、雨の匂いがきつく立ち上る。
 遼と伊達は駅を出て高架沿いを歩いた。全体的にシャッターのしまった店が多いうらぶれた商店街を通り抜ける。いかにもシャブの売買が行われていそうな場所だ。
「近くにいるぞ」
 三島の声がイヤフォンから聞こえてきた。バイヤーの位置情報は掴んでいる。連中の情報はこちら側に筒抜けだ。
「相手の方は、動きがないわ」
 梨花の声。クスリを買うバイヤーが動いていないということだ。
 嫌な予感がする。バイヤーが動かないことには取引は成立しない。
「今日は二人とも無理しないで。嫌な予感がするの」
 彼女もいつもと違う状況を感じている。
「お前らしくないな」
「うるさい」
 ふたりは街外れの薄汚れた雑居ビルにたどり着いた。じっとりと汗が頸回りに滲んで不愉快な感触がする。
「すぐ傍だ」三島の声。
「気を付けて。まだバイヤーは動いていない。取引をやめたのかも、罠かもしれないわ」
 いつもならクスリの密売人なんかぶち殺せと喚くくせに、彼女らしくない気づかいだ。
 雑居ビルの地下に行き、きしんだ扉を開ける。中からは埃っぽい煙が立ち上り、遼の目をしかめさせた。壊れたドラムやシンセサイザーが転がっている。昔はクラブだったのだろうか。灯りを付けようと壁をまさぐるがスイッチも壊れている。
「だれだ」
 低く押し殺したような声が背後でした。
 ふたりが振り返った。そこには一人の痩せた猫背の男が立っていた。骸骨を思わせる風貌の男だった。干からびた顔。目には光が無く乾ききっている。
 こいつがバイヤーか。
 この男は、ジャンキーだ。遼は本能的にそれを察知した。ジャンキーがクスリを売りさばくのはそう珍しいことではない。自分のクスリを買うために狂ったように売りさばく。どんな手をつかってでも。
「そこで何をしている?」
「いや……取引に来た」伊達が咄嗟に答えた。この状況ではそう言って誤魔化すしかない。
「何だ……買いに来たのか」
「そうだ……取りあえず五十万円分だったな……」
「もう無い。全部売り切れだ。他を当たってくれ」
「どういうことなんだ? 他に売るなど、聞いてないぞ」
 伊達が言った。
 なんだ、こいつは。他の奴に売ったっていうのか?
「いやな……一割増しで買ってくれた奴がいたんで、売っちまったんだ」
 男は卑屈な表情で答えた。伊達のはったりが功を奏したようだ。
 だから、ジャンキーは信用できない。下手をすれば殺されるようなルール違反を平気で冒す。絶対に取り決めを守らない。
「誰が買っていったんだ?」
「ああ……若い女だったよ。まだ女子高生じゃないのかな」
 男はだらしなく口を半開きにしたまま、そう言った。
「そいつは神の長い、青白い顔をした女だったか?」
「そうだな、そんな感じだった」
 遼の言葉に、男は、キヒヒと笑った。遼はその女が波多野であることが直感的に分かった。
 なぜだ。なぜ波多野はそんなことをしているのか?
 遼は波多野に対して何か超然とした、非現実的なものを求めていた。だから彼女が薬物に手を染めていることに、違和感があった。
 伊達がこちらを見ている。そいつが誰なのか、お前は知っているのかと問い詰める視線。
「ということは、お前はまだ金を持っているってことだな」その場を誤魔化すように、遼は目の前の男を睨んだ。
「そんなはずはないだろ。そんな危なっかしいことするわけないさ。とっくに仲間が持って行ったさ」
「いや、その女が来たのはついさっきだったはずだ。金はまだここにある。お前はここに金を隠しに来たんだ」
 男の顔つきが変わった。右足を引きずりながら後ずさる。
「約束していたのに他の奴に売った罰だ。お前の金を貰う。どこにある」
伊達がスタンガンを手に持ち、火花を散らせる。
「だ、誰が渡すもんかい!」
 遼がバイヤーを引き倒し、伊達がスタンガンを押し当てた。切り裂くような悲鳴が部屋に響く。
「俺達は遊んでいるんじゃない。馬鹿にしないほうがいいぞ」
 伊達がまたスタンガンを男に押し当てた。

幻影と嘘の擬態 10


10

 夕暮れ。
 今日、屋上に波多野はこなかった。毎日彼女が来ると決まっているわけではない。そう思っていても、どうしてこなかったのか、やはり気になる。
 今夜、売人たちの取引現場を襲撃する。ここまでくれば覚悟を決めるしかない。出たとこ勝負だ。気分を落ち着ける必要がある。
 正門を出て、駅へと続く長い道を下っていく途中、何人かの部活帰りの生徒達が遼を追い越して行く。
 弾けるような女子生徒の笑い声。毎日、何が楽しいのだろう。少しうらやましいと感じる。
 前方に波多野の姿が見えた。一人で歩いている。声をかけようかと迷ったが、結局やめた。そんな仲でもないし、波多野と会うのは屋上だけにしておきたかった。
 駅前の商店街を通り抜け、波多野はゆっくりと歩いていく。彼女は駅のガード下をくぐり反対側に出ていった。
 この辺に住んでいるのだろうか。案外学校に近いんだな。
 その時、ガードの向こうにふいに人影が現われた。見慣れない制服の男子生徒だった。遼の学校の灰色のブレザーとは違い、紺のブレザーだった。他校の生徒のようだ。その生徒は波多野と一緒に歩き出した。
 恋人だろうか。波多野の。
 遼の胸の中に苦い思いが沸き上がってきた。それは不愉快とまではいかないにしろ、胸苦しい感覚だった。
 勝手なもんだ、俺も。梨花を抱いているくせに他の女に心奪われるなんて。
 夕陽の光が目の前にちらつく。
 なぜ、こんなことをしているのだろう。他人を付け回すなんて、まるでストーカーだ。
 波多野たちふたりは古びた本屋の角を曲がった。全体的にくすんだ色の一角の中、植木鉢の赤い花だけが精彩を放っていた。
 不思議なデートだった。お互いに全く声を交わさない。
 ふたりは迷路の様な入り組んだ裏通りを進んだ。木造の古風な家々、壁には色鮮やかな緑の蔦がからまっている。垣根が所どころ破れ明るい空き地が見えていた。住宅街や商店街を通る通学路とは全く違う下町の風景が広がっている。
 人気のない場所まで来ると二人は立ち止まった。遼は素早く垣根の影に隠れた。波多野は鞄から薬局で渡されるような紙包みを取り出し男子生徒に渡した。そして波多野は二、三枚の紙幣を男子生徒から受け取った。
 遼はふたりの動作を見て気づいた。これまで嫌というほどさんざん見てきた光景。クスリの売買だ。
 波多野が売人だったとは。
 まさかとは思う。間違いであって欲しいという気だけが膨らんでいった。しかし、間違いでなければ波多野がこの地域の組織の一員ということだ。
 遼は静かにその場を離れた。
 頭の中で様々な思考が渦巻いた。
 人の気配で顔を上げた。
 男が三人、目の前に立っていた。
 咄嗟に身構えていた。
 三人の顔に、見覚えはなかった。
「なんか用か?」
 二十前後。みんな同じくらいの歳恰好だ。やくざじゃない。
「お前のことは知ってるぜ」タバコを銜えている男が言った。こいつがリーダー格か。
「人違いだろ。俺はあんたらを知らねえな」
 学校帰りなので武器はない。周囲に視線を巡らせる。足元に石ころが一つ、落ちている。
 リーダー格が吸い殻を道路に吐き捨てた。
「お前ら、誰なんだ?」
「ガキが調子に乗るんじゃねえ」
 男たちが踏み込んできた。遼はとっさにしゃがみ、石ころを掴むとリーダー格の顔に投げつけた。石が男の額に当たった。遼も踏み込んだ。右にいた丸刈り男の顔面に拳を叩きこみ、左の金髪男の股間を蹴りあげた。三人が前を開けた。
 そのまま走り抜けようとしたが、リーダー格が遼に抱きついてきた。そのまま引き倒される。股間を蹴り上げた金髪男が、怒りに任せて靴先を叩き込んで来る。咄嗟に体を丸めて急所を守る。丸刈り男も加わった。怒りに任せて遼の身体を蹴ってくる。
 この野郎。
 連中の足先が、続けざまに全身に食いこんでくる。
 今はどうしようもない。そのうち止むだろう。
 しばらくして身体を引き起こされた。二人が両側から支えていた。正面に立つリーダー格の額から血が流れている。
「やるなあ、お前」
 リーダー格が笑っている。仲間の二人に余裕を見せているつもりなのか。
 くるそ。そう思った瞬間、腹に来た。膝が折れそうになる。左右からも腹を蹴りあげてくる。胃の中のものを吐きそうになった。
「俺を誰だか知ってるのか?」
「調子にのるんじゃねえっていってるだろ」
「お前らが誰か、思い出したぜ」
「はあ?」
「シャブの売人グループだろ?」
 リーダー格の表情が変わった。やっぱりそうか。
「めったなこと、口にするもんじゃねえよ」
 また、腹に来た。さっきほどは効いていない。
「こいつ、俺たちのこと、本当に知ってるんじゃねえのか?」
 遼の右腕をとっている丸刈り男の声が震えている。眉毛をそり上げ迫力を出しているつもりのようだが、気は弱い。
「びびるんじゃねえ、ただのはったりだ」
 リーダー格の拳が顎に来た。脳が揺れ、頭の芯が痺れた。右腕を持つ男の手が緩んだ。
 遼は上体を逸らし、再び踏み込んできたリーダー格の顎に頭を叩きつけた。男が呻いた。足は自由だ。股間を蹴りあげると、リーダー格が腰を折った。
 右腕を振り払った。左腕を取っている金髪男の顎を拳で突きあげる。口を押えて男が地面を転がった。後ろから丸刈り男が抱きついてきた。遼は体に固く食い込んだ男の指を引きはがし、一本を思い反り返らせた。
 骨の折れる感触とともに、丸刈り男が悲鳴を上げた。
「調子に乗ってんのはお前のほうだろ!」
 起き上がろうとしたリーダー格の顎を思い切り蹴り上げると、遼はそのまま男たちの間を走り抜けた。


幻影と嘘の擬態 9




 昼休み。
 学生食堂はいつもの喧騒に満ちていた。
 遼はトレイを持って、人ごみから抜けるようにして席についた。
 一緒に来たクラスの友人二人はもうすでに食べていた。席について遼はそばをすすった。
 まずい。
 ぼそぼそとした麺、異様に塩辛いつゆ、油かすの様な揚げ玉。
「こりゃ、駄目だな。まずいし値段も安くないし」
 カツ丼をつついていた生徒が細長い顔をしかめた。
「全く。そうだな」
 カレーを食べていたもう一人も同調する。遼も彼らと同意見だったが一応麺を口に運んでいた。
 学生食堂に多くを求めても仕方ない。食堂のまずい飯を食いたくないのなら弁当を持ってくるか、コンビニで弁当を買ってくるしかない。
「なあ、阿久津。うちの学校にもクスリが出回っているらしいぜ」
「ただの噂だよ」
「いや、俺も聞いたことあるぞ」カレーを食べていた友人が口を挟んだ。
「結構やってんのはいるよ。ほら試験前に眠気がとれるとか集中力がつくとかいう話があるじゃん」
 薬物の本当の恐ろしさを、こいつらは知らない。
「実は俺たち、売人の知り合いがいるんだよ」耳元に口を持ってきて、かつ丼を食べている友人が囁いた。
「それ、本当かよ」
「今度分けてもらおうぜ」
「お前ら、たいがいにしておけよ」
「びびるんじゃねえよ。みんなやってんだから」
 遼は素知らぬふりをした。売人が身近にいる場合、興味を持ってしまったものの半数がクスリに手を出してしまう。
 止めても無駄だろう。売人に巡り合ってしまったこいつらが不運だったのだ。
「そういやさ。この学校にも密売組織があるらしいぞ」
「まさか」
「阿久津は何も知らないんだな。俺も聞いたことがあるよ」と別の生徒が言った。
「噂は噂だろ」
「マジな話だって」
「誰がやっているんだ?」
「名前までは知らないよ。だが知っている奴は知っているんじゃないかな。そういうものらしいから」
「クスリなんかに手を出したら、人生おじゃんだぜ」
「おじゃんになるような上等な人生じゃねえし」
「そいつは違いないや」
 笑う二人に取り残された遼はゆっくりとそばを掻き込んだ。口が油っぽい。
 やりたきゃ、やりゃあいい。お前たちの人生だ。母親が薬物をやっているときも、そう思っていた。
 密売グループが街の中高生と接触し、売人に仕立てていることは事実だ。学校内でクスリをばらまけば、友人たちの伝手で一気に販路を広げることができる。この進学校だけが例外であるはずはない。むしろ賢い生徒が多い分、たちが悪いかもしれない。
 後ろから肩を叩かれた。伊達だった。
「ちょっと来いよ。遼」
 食器を片付け、階段を上がって校庭に出る。三島と梨花が待っていた。
「悠太が情報を掴んだ。取引が早まったらしい。今夜実行だ」
「急ぐんだな。連中も情報の漏洩を疑っているんじゃないのか?」
「三島くんのハッキングはばれていないようよ。私も確認したし」
 梨花が挑戦的な目を向けてくる。
「どうだか」
「私たちが信用できないっていうの?」
「手抜かりないよ。すべて順調だ」
 感情的になりつつある梨花をなだめるように、三島が穏やかに言った。三島の自信ありげな態度に伊達も口を挟まなかった。

幻影と嘘の擬態 8




 ようやく授業が終わった。
 ホームルームを終え、生徒たちが教室を出ていく。席を立ってカバンを肩にかけた。梨花が自分の席の前に立って、こちらを見ていた。
「なんだよ」
 梨花が拗ねた顔を向けた。
「そんな顔すんなよ。クラスの奴に感づかれるぞ」
「そうね、それは困るわ」
「言いたいことがあるなら言えよ」
「おかしいよ、昨日から」
「いつもと一緒だよ」
 教室を出ると、遼は屋上に上がっていった。
 自分の部屋に一人いても仕方ない。かといって、人であふれる街中を歩く気にもならなければ、公園や河原でふらふらするのも気が進まない。学校の方がましだというだけだ。
 白く薄い雲が空全体を覆い、それを透してぼんやりとした夕陽が差す。これを黄昏と言うのかもしれない。淡い水色の空と金色がかった薄い残光の照り返しを受けた雲。その下の街。そしていつものように明りが灯り出す。
 遼はゆっくりとタバコを取り出し、火をつけた。白煙がゆっくりと風にのってたなびいていく。
 どこか遠くへ行きたい。
 いつからか、そう思うようになっていた。そして、その漠然とした思いを空想の中で具体的に練りあげる。幼稚な遊びだが、暇つぶしにはちょうどいい。
 在り金叩いて、刑務所にいる母親の貯金もいくらか引きだし、空港に行く。その後、飛行機でロシアの東の端に行ってシベリア鉄道に乗る。一面の原野なんて最高だ。遮るものの無い地平線というものを、一度は見てみたかった。
 タバコ一本を吸い終えて捨てる。不意に背後に人の気配がしたので振り返った。
 あの女子生徒が立っていた。ゆっくりとした足取りで、あの匂いの強いタバコを吸っていた。
 来る気がしていた。自分と同じ匂いのする女。向こうもそれを感じているかもしれない。
 女子生徒の目が合った。無色の瞳を遼に向けている。
「よう」
 タバコを一旦口から離した。
「いる?」
 片手でタバコの箱から一本抜いて、遼に勧めた。昨日見たのと同じ、明るい茶色のタバコだった。 
「いただくよ」
 遼は代わりに自分のタバコを差し出した。貰ったタバコに火をつけて吸い込んだ。香料の利いたきつい味がして思わずむせてしまった。紫がかかった煙が空中に消えていく。
「随分きついな。それに悪くないけど何か……妙な味だ」
「まあ、慣れてない人にはきついかもしれないけど」
 笑いもせず遼が渡したタバコを吸った。
「軽い。ハッカの匂いがする」
「メンソール系だからな」
「あんまり旨くないわね。私はこういうのは嫌い」
 女生徒はそう言うと一口吸ったタバコを無造作に投げ捨てた。そのしぐさが妙に絵になっていた。                  
 特に話し込んだりするわけでもなく、二言三言、言葉を交してはタバコを吸って、屋上から風景を見ているだけだった。彼女は自分の名前も言わなかったし、遼もあえて聞かなかった。何となく聞くのがはばかられた。
 だが、遼は彼女のことを知っていた。
 波多野美月。伊達が教えてくれた。
 三年E組の生徒。変りものとして有名らしい。一年の時、学校を休学したので、歳は一つ上だ。極端に無口で、近づき難い雰囲気の持ち主という評判だ。だが、出席日数ぎりぎりしか授業に出ていないにもかかわらず成績はトップクラスだった。
「寒くなってきたわ」彼女が両手で身体を抱いた。「昼間はあんなに暑いのに、日が暮れてくると急に気温が下がるのね」
 彼女がタバコを床に落とし、足で踏みつけた。
「戻るわ」そう言って遼の横を通り過ぎようとき、彼女が躓いて短い悲鳴を上げた。
 遼はとっさに右手に持っていたタバコを捨て、彼女の体を抱きとめた。
「ありがとう、優しいのね」
「どういたしまして」
「それにしても、素晴らしい反射神経ね。タバコ、火をつけたばかりなのに、無駄にさせてしまったわ」
「気にするな。吸い過ぎは身体に良くないって、思っていたところなんだ」
 彼女がくすくすと笑った。初めて彼女に見る、少女の面影。
 ありがとうと言って、彼女が昇降口に戻っていった。
 気のせいだ。
 傷のある左腕をかばったことに、彼女が気付いているはずはない。

幻影と嘘の擬態 7




 暑い。熱気が四方から寄せてくるような感覚。汗をシャツが吸い不愉快に身体に貼り付く。
 夏の日のように湿気が高くないのがせめてもの救いだが、本当に今は十月なのかと騒ぎたくなる。
 こんな日は授業中に寝る気すらおきない。
 遼はノートで顔を仰ぎながら、黒板の左側にある壁の亀裂を見つめた。
「この死の勝利は十五世紀、ペスト流行の際に……」
 世界史の教師のしわがれた声が幻聴の様に聞える。
 地球温暖化はもう抜き差しならないところまで来ているのではないかと本気で思ってしまう。こんなところで暢気に授業を受けている場合なのか。全世界の人々が一致団結して、来るべきカタストロフィに備えるべきではないのか。十五世紀の話なんかどうでもいいだろう。このままじゃ、世界は本当に滅びるかもしれないんだぞ。
 しかし、そんなことをここで一人でぼやいても仕方ない。
 ちょうど遼の席とは反対の廊下側の席に座っている梨花を見た。背筋をぴんと伸ばし、黒板を見つめている。気が強く聡明で真面目だというのが彼女の評判だ。昨夜遼に抱かれて悩ましい声を上げていたなど、誰も想像すらしていない。仕事がやりにくくなるので、梨花とのことは伊達や三島にも内緒にしている。
 今日は風一つない。この時期、風が通る窓側の席はベストポジションだと思われているが、これではいくら窓側の席でも何の意味もなかった。
 遼は開け放たれた窓の外に目を転じた。外界は白い陽光が容赦なく降り注いでいる。グラウンドでは体育の授業が行なわれていて、生徒達が大きな土煙を立てながら走っていた。
体育の授業よりかはましか。そう思いつつ遼はグラウンドの一画にある木陰に何げなく目をやった。
 そこにいたのは、昨日の放課後、屋上で会ったあの女子生徒だった。制服のまま木の下に立っている。授業を見学しているらしい。
 病弱そうな女だった。こんな炎天下での体育の授業は、彼女にとってはつらいだろう。
 そのとき、彼女が上を見上げた。一瞬目が合ったような気がした。咄嗟に目を反らして視線を教室に戻した。
 確かにあの女子生徒だ。間違いない。
 まるで初恋の相手にでも巡り合ったような胸の高鳴りを覚え、ふっと息が漏れた。
 だから何だというのだ。
 だが、思えば初恋なんてものはなかったな。人を好きになるには、小さなころから人間の汚い部分を見過ぎていた。
 終業を告げるチャイムが鳴り響いた。

 昼休みの学校は、文化祭の準備で賑わっていた。
 廊下は生徒達で混んでいた。遼は一階に行くため、薄暗い階段を下った。
「よう、遼」
 突然かけられた声に振り返った。引き締まった体躯と乱れた髪、鋭い目。伊達がこちらを見ていた。
「鈴木は?」
「さあな。俺はあの女の御守りじゃねえよ」
「同じクラスだろ」
「教室じゃ、気安く口を利く仲じゃないって振りしてんだよ」
 伊達が陽気に笑う。遼が降りてきた階段を、梨花が下りてきた。
 校舎の隅にある備品倉庫に向かう。昼休み、ここを覗く生徒はいない。
 三島が先に来て三人を待っていた。
 取引の場所は駅の傍の廃ビルの地下。ロッカーの中の金を確認した卸問屋が売人グループにブツの隠し場所を連絡する。無事にブツを手に入れるまで売人グループが卸を見張り、売人グループが無事に物を手に入れると両社で取引が成立する。
 遼たち四人が狙うのは卸が受け取った金だ。売人グループが、金が惜しくなって卸を襲い、渡した金を取り戻すふりを装う。売人グループの仕業だと疑った卸と売人グループとで小競り合いを起こさせ、両者の信頼関係を失わせるのが目的だ。逆に、売人を襲ってクスリを強奪することはしない。卸はクスリのストックに困っていないので、その行為は不自然だからだ。
 街にはクスリが溢れているので、卸は儲け話には困らない。
「罠かもしれない。気を抜かないほうがいいな」
 三島の説明が終わると、遼が三人を見回した。梨花の目が鋭くなる。
「弱気になるんじゃないわよ。なんなら、私もそっちに入って加勢してあげようか」
「お前がいても邪魔なだけだ」
 梨花が遼の足を蹴る。
「あと、警察の情報も入っている。近々大規模な手入れがあるらしいぞ」
「いつ?」
「そこまではつかんでいないよ。やくざや不良や売人と違って、警察の情報は容易く手に入らない」
「とにかく、罠の可能性もある。念には念を入れて情報を仕入れてくれ」
「罠を張るにはそれなりに仲間同士の情報交換が必要になる。そんな情報のやり取りの形跡はないんだ」
 三島の言葉に、梨花もそうよと言い添える。
「スマホを使っていないかもしれない。フェイス・トゥー・フェイスで情報を交わされていたら、俺たちにはわからないだろ」
「呆れた。スマホが乗っ取られていることがばれているとでもいうの? あんたがそこまで臆病だとは思わなかったわ」
「知ってるか? ライオンはヤギより臆病だって。だから野生で生き残れるんだよ」
「何言ってるの。馬鹿みたい」
「遼の言うとおりだ」伊達が口を挟んだ。「金を奪われた連中がいつまでも黙っているとは思えない。悠太、さらなる情報収集、頼んだぞ」
「へいへい」
 梨花が不機嫌そうな顔で備品倉庫から出て行った。
「鈴木の奴、最近、感情的になり過ぎている」伊達が梨花の背中を見ながら呟いた。
「大丈夫だよ。頭に血が昇っていても、やることはきちんとやる女だ。優等生だからな、あいつは」
 日本では中高生の間でも覚せい剤を中心に薬物汚染が広がっていた。中高生中心の幾つもの密売グループがシェア争いを繰り広げており、暴力沙汰も珍しくなかった。生徒同士の諍いが殺人事件にまで発展することも珍しくなかった。
 そんな密売人を獲物にしている遼達のグループも、いつ何時、裏社会の住人に睨まれるか分かったものではない。
「何にせよ気をつけねえとな」
 間もなく昼休みが終了するチャイムが鳴る。遼たち三人は備品倉庫を出た。廊下は生徒たちで溢れ、三人は人の流れを縫って廊下を進んだ。
 ふと目を横にやると、見覚えのある横顔が目に入った。
 あの女生徒だった。
 彼女はちらりと遼の方に目をやったが、すぐに視線を戻した。
「あの女と何かあったのか?」
 横にいた伊達が怪訝な目を向けている。彼女のさっきの視線を見逃さなかったのだ。
 相変わらず鋭い男だ。
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