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逃れの海峡 11



11 漁港

 朝七時にラブホテルを出て、再び沼津に戻った。
 早朝の沼津港。しかし、漁船はもう港に戻り始めていた。
 漁協の裏の駐車場にベンツを停め、啓次郎はタバコを吸っていた。目の前に民宿若竹と書いたライトバンが置いてある。
「私にも頂戴」
 上着のポケットからセブンスターの箱を取り出して、朱音の膝に置いた。
「ああ、きつい」
「いつも何を吸ってるんだ?」
「前はセーラムライト。今はやめてるけど」
 窓の外に煙が流れていく。
「お腹空いた」
「我慢しろ。こんな時間じゃ、どこも開いてない」
「コンビニ」
「後で好きなだけ買ってやる」
「あの若竹さんって頼りになるの?」フロントガラスの向こうのライトバンを見た。
「頼れるのは若竹さんだけだ」
 港のほうからライトグリーンの籠を抱えた男が歩いてきた。啓次郎がドアを開けて外に出た。タバコを地面に落として踏みつける。
 朱音も外に出た。ライトバンに籠を乗せていた男がこちらに気づいた。
「お久しぶりです」
「おまえか」
 五十は過ぎている。皺が多く刻まれた顔に、鋭い眼が埋め込まれている。
 男がチラッと朱音を見た。
「久しぶりだな。元気そうじゃねえか。こんな朝っぱらからデートか?」
「ここであなたを待っていました。話があるんです」
「俺にゃ、ねえな」
「話も聞いてくれないんですか?」
「碌でもねえ頼みだろ」
 啓次郎が口を噤んだ。
「俺はおまえが気に入ってたんだぜ。なかなか骨のある男だと思ってたんだ。それがやくざなんかになりやがって。見損なったぜ」
「やくざになったんじゃありません。義理ができたんで、少し手を貸しただけです」
「け、それで誠司のやつぁ、死んじまったんだぜ」
「誠司が自分で選んだ道です」
「くだらねえことで命を粗末にしやがって」
 男が咳払いをした。
「その顔はどうした。派手にやられてるじゃねえか」
「少し揉めただけです。大したことはありません」
「何が原因で揉めたんだ?」
「それは……」
「言いな、俺に話を聞いてもらいてえなら」
 啓次郎はしばらく口を噤んだ。
「実は、人を殺りました」
 若竹の動きが止まった。
「尽誠会の田所が東京でやられたってニュースをやってたな。おまえがやったのか?」
「はい」
「馬鹿な野郎だ。長生きできねえな、お前は」
「これが俺の生き方なんです。ダチの仇だったんで」
「自慢してんのか、馬鹿野郎が。誰がてめえに倅の仇討ちなんざ頼んだ」
 若竹の口から出た誠司というのは、この男の息子だったのか。
「俺にだって我慢ならねえことくらいありますよ」
「で、俺に何の用なんだ?」
「船に乗せて欲しいんです」
「外国に逃げるのか?」
「韓国に」
 若竹の目が、わずかに動いた。
「釜山か? 母ちゃんの故郷に行くのかい?」
「向こうの血が混じってるもんには、この国は少し暮らしにくいんですよ」
「向こうのほうが扱いは酷いぜ。日本人とのあいのことなんざ、口もきいてくれねえ。母方の親類だってお前のことを良く思ってねえ奴ぁ、いるんだろ?」
「ここよりはましです。逃げるのは嫌ですが」
「おまえ、金は持ってんのか?」
「二百万ほどあります。足りますか?」
「馬鹿やろう。見損なうんじゃねえ。金でやろうってんじゃねえよ。向こうに行ってやってけんのかって聞いてんだよ」
「すみません」
 啓次郎が頭を下げた。
「はっきり言って……金は持ってる二百万だけです。これでやってくしかありません」
「船は俺が何とかしてやる」
「ありがというございます」
 啓次郎が深々と頭を下げた。朱音も一緒に頭を下げる。
「ただし、船はここにはねえ。韓国行きの船となりゃ、日本海側に行かないとな。おまえは佐賀の唐津に行きな。呼子の岬で船に乗って対馬沖で遠洋の船に乗り換える。そこまでいきゃ、韓国の領海まで眼と鼻の先だ」
 若竹が朱音を見た。
「姉ちゃんは、どこまでいくんだい?」
「彼が無事に船に乗るのを、見届けたいの」
「一緒にいかねえのか?」
「彼とはそこまでの仲じゃないの。一緒に岬まで行って、バイバイって手を振る程度の仲よ」
 一瞬きょとんとした若竹が、大声で笑った。
「いい女じゃねえか」
「どうも」
 若竹がまた笑った。笑顔は意外と愛嬌がある。
「尽誠会はお前が海外に高飛びすると見当つけるだろう。俺はお前達が富山に向かったよう、裏から情報を流す。連中を引っ掻き回してやるぜ」
「何から何まで、ありがとうございます」
 啓次郎が、ポケットから車のキーを取り出した。
「中古で悪いですけど、俺の車を売ってください。人気の車種ですから、そこそこの金になると思います。俺にはもう必要ないものなんで」
「いくらなんだ?」
「買ったのは一千万くらいですけど、まだ、七、八百万くらいにはなります」
「売れたら金を送ってやる。向こうについたら連絡して来い」
「あれは若竹さんに」
「倅の親友からあんな高い車を分捕るわけにゃ、いかねえだろ。それに、海外で暮らすにゃ、何かと物入りだぜ。向こうの親類は最初のうちはあてにならねえかも知れねえからな。ただし、俺は車屋じゃねえんだ。いくらで売れるかは保障しないぜ」
「ありがとうございます」
「おう、向こうに着いたら必ず知らせな」
 最後にふたりで深く頭を下げた。若竹はさっさとライトバンに乗ると、漁協の駐車場から走り去っていった。

逃れの海峡 10



10 逆転

「気絶したか。こいつ、タフだったな」
 オールバックの声に恐る恐る眼を開けた。啓次郎が金髪男に羽交い絞めにされたまま、ぐったりしている。金髪男がその手を放し、だるそうに肩を回した。
「なあ、この女、先に食っちまおうぜ」
 丸刈り男が朱音の首にナイフを押し付けたまま、空いている左手で乳房に触れてきた。
 うつ伏せに倒れていた啓次郎の腕が動くのを、視界の片隅にとらえた。朱音の視線に気づいたオールバックが振り向いた。
 ダラリと下げた手に、ナイフを握っている。
「まだ動けんのか、こいつ」
 啓次郎が上体を起こした。眼が合った。もう少し我慢しろ。彼が眼でそういっているように思えた。
「今からこの女を喰っちまうから、おとなしくしてろよ。騒ぎやがると殺すぜ」
 オールバックが威嚇するようにナイフを突き出して笑った。
 啓次郎が、片方の膝をついてゆっくりと立ちあがった。そして、そろそろと両脚を伸した。
「お前、本当に殺されたいのか?」
 啓次郎は首をゆっくり回した後、腕と肩を曲げ伸ばしした。各パーツの痛み具合を確かめているように見えた。
 オールバックがナイフを前に突き出して啓次郎ににじり寄っていく。
「金、持ってるんだろ? じゃあ、百万で許してやるぜ。たった百万で命が助かるんだ。ただし、この女は置いていってもらう」
「お前、やっぱり頭がおかしいな。シンナーのやりすぎだ」
 オールバックがまた笑った。口元が引きついている。
「こうなりゃ、死体になってもらうしかないな」
 オールバックの手で刃がキラリと光った。
 突然、啓次郎が踏み出した。距離を詰められ、オールバックが慌てて下がった。
 啓次郎の腕がオールバックの胸倉を掴んだ。
 オールバックの股間を膝で突きあげ、右手でナイフを握った腕を掴んでいた。
 オールバックが悲鳴を上げた。慌てて飛び掛っていった金髪男が啓次郎に腹を蹴られ、床を転がった。
 啓次郎の手にナイフが握られていた。オールバックが持っていたナイフだ。啓次郎がオールバックの後ろに回り、そのナイフを首に突き刺した。
 オールバックが悲鳴を上げた。同時に朱音も悲鳴を上げて眼を閉じた。
「大騒ぎしなさんな。ナイフはまだ皮の下だ」
 朱音が閉じていた眼を開けた。ナイフの刃が男の首の皮膚を貫いていた。皮膚の下にあるナイフの葉の形がはっきりと見える。
 男の首から血が滴り落ち、白いシャツの胸元を赤く染めていた。残りの二人は身動きせず、啓次郎の腕のナイフを見ていた。
「動くと頚動脈が切れちまうぜ」
「た……助けて……」
「お前、俺が何をやったのか、尽誠会から聞いていないのかい?」
「え?」
「三日前の夜、歌舞伎町で尽誠会の会長が殺された事件を知ってるかい?」
 オールバックが眼を見開いた。
「あ、あんたがやったのか……?」
「ああ、俺がやった。もうこうなっちまったら、一人殺るのも二人殺るのも同じだな」
「た、助けて! 助けてくれぇ!」
 オールバックの身体がヒクッ、ヒクッと痙攣している。シャツの半分が血で真っ赤に染まっていた。
「し、死んじまう! このままじゃ、死んじまう!」
「じゃあ、くたばりな」
「お願いだ、助けてくれぇ!」
 オールバックが泣き出した。
「おい、坊主頭。女を放せ」
 丸刈りの男の手の震えが、喉に押し付けられたナイフの刃を伝ってくる。
「聞こえねえのかい?」
 丸刈り男が慌てて朱音を離した。
 啓次郎が顎をしゃくった。丸刈り男と金髪男が、顔を強張らせたまま部屋の隅に移動した。
「朱音、早く服を着ろ」
 啓次郎がナイフを持つ腕を動かした。刃が皮膚を切り、少し肉に食いこんだ。オールバックの口から悲鳴が飛び出した。
「女みたいによく叫ぶ男だな。静かにしてろ。殺されたいのか?」啓次郎が手に力をこめる。
「いやだ、死にたくない!」
 オールバック男が泣きそうな顔で口を噤んだ。
 ブラジャーを着け、カバンの中から前の日まで来ていたワンピースを取り出した。ボタンが取れてしまっただけではなく、破けてしまっている。せっかく気に入っていたブラウスなのに、処分するしかない。
 部屋の隅に追いやられた二人が同時に立ち上がろうとした。啓次郎が首に刺しこんだ刃をちょっとだけ動かした。オールバックが悲鳴をあげた。血が、白いワイシャツをべっとりと汚していた。
 オールバックの顔には、びっしりと汗が浮いていた。真っ青な顔で、口を大きく開き眼を閉じていた。血の気も失せていて、時々眼を閉じる。失禁したのか、股間が滲んでいる。
「早く医者に連れて行かないと死んじまう!」
 金髪男が叫んだ。
「じゃあ、さよならいいな」
「やめてくれぇ……」
 ついにオールバックが泣き出した。
「根性のねえやつだ。小心者の癖にやくざの真似事なんかするんじゃねえよ」
 啓次郎がナイフの刃をオールバックの首から抜いて、部屋の隅に突き飛ばした。シャツは背中の半分ほどが赤くそまっていた。丸刈り男と金髪男が慌てて抱き起こした。
「消えろ。早く病院に連れて行かないと、本当にくたばっちまうぜ」
 三人が慌てて出ていった。
「啓次郎……」
 朱音が彼の顔をなでた。顔中が腫れていて血が固まりかかっている。
 啓次郎は洗面所で顔を洗った。朱音はタオルをカバンから取り出すと、啓次郎のそばにより、そっと顔を拭いた。
「痛い?」
「見ての通りだ」
 二人並んで鏡に映っていた。鏡を通して見るほうが酷く見える。
「さっさとずらかるぞ。血塗れの男を通行人に見られたら警察に通報されちまう。ここにも警官はやってくるだろうからな」
 朱音は頷いて、持ってきたセリーヌのトートバックを腕に抱えた。

逃れの海峡 9



9.チンピラ

 啓次郎を見た男達がせせら笑った。体格のいい啓次郎を見ても怯む様子がないのは、仲間が三人だからだろう。
「お前が矢矧啓次郎か?」
「お前ら、誰だ。尽誠会のもんじゃねえな」
「なるほど、聞いたとおりの男だな。もしかしたら女を連れてるとかいってたけど、こっちもどんぴしゃりだ」
 二十代後半。三人とも体格がいい。ひとりが紺の綿パンに白のシャツ、オールバック。残りの二人は派手なロゴ入りのTシャツにジーンズだ。丸刈りと、茶髪を伸ばした奴。
「尽誠会に頼まれて俺を探していたのかい?」
「まあ、ちょっとした小遣い稼ぎだ」
「田舎の不良が調子に乗ってるんじゃねえぞ」
「なんだと!」
「素人の癖にやくざになんかに関わると碌なことはないぜ」
 朱音の髪を掴んでいる丸刈り男が、喉にナイフを押し付けた。思わず悲鳴を上げる。
「その女は俺が無理やり連れて来ただけだ」
「そうかい? じゃあ、俺達がもらっても文句はねえよな」
「粋がんなよ。田舎の不良は地元でシンナーでも売ってりゃ、いいんだ」
「シンナーは割に合わねえ。やたらおまわりの目に付くし」
「地回りにだいぶピンハネされるしな」
「お前、ほんとにむかつくねえ」
 オールバックのロ元が、かすかに痙攣していた。
「俺達をあまり甘く見てると、ほんとに大怪我しちまうぜ」
 オールバックが手にナイフを持って近寄ってきた。
「俺をどうする気だね?」
「尽誠会に知らせる前にオシオキしなくっちゃな」
 啓次郎が朱音を見た。どうするの? 口が痙攣して、言葉が出てこなかった。
 オールバックが啓次郎の前に立った。
 茶髪男がいきなり朱音のブラウスに手をかけた。無理やり剥ぎ取った。胸のボタンがちぎれ、足元を転がった。
 悲鳴をあげたが男達の手は止まらなかった。床に倒され、ブラジャーも毟り取られる。
 裸身を晒した朱音は、乳房を抱えてしゃがみこんだ。
「なにすんのよっ!」
「確かにいい女だ。こいつは川崎あたりに連れていたら稼げるぜ」
 オールバックを見て啓次郎が笑った。
「何がおかしい!」ナイフを突き出して威嚇する。
「女をソープで稼がせるなんざ、素人にゃ、無理だぜ。川崎なんかに連れて行ってみろ。地元の筋もんにあっという間に女をとり上げられちまうんだぜ」
 啓次郎に睨まれ、男が怯んだ。
「素人が知った口利くんじゃねえよ」
「この野郎」
 ナイフを握った手で、オールバックが啓次郎を殴った。
「おい」
 オールバックがこちらを振り向いた。朱音は二人の男達に両側から腕をつかまれ、無理やり立たされた。 両腕を男達にとられ、乳房を隠すことも出来ない。
「いくら出せる?」
「どうしてお前に金を出さなきゃならねんだ?」
「尽誠会には黙っててやるよ。女も自由にしてやる」
「ずいぶん、滑稽なことをいうんだな。筋もへったくれもあったもんじゃねえ」
「てめえ、死にたいのか? 尽誠会に渡されたらどんな目に合うか知ってんだろ? いい度胸してるというか、それとも馬鹿なのか」
「簡単なことさ。お前らをここでぶちのめして逃げればいい」
「はあ?」
 坊主頭の手に握られたナイフのは、朱音の喉に食い込んでくる。
「俺たちを甘く見ねえ方がいい。あの女の首を掻っ切るぜ」
「いっただろ。攫ってきた女だって」
 オールバックが笑った。この男がやくざなのかどうか、朱音にはわからない。しかし、啓次郎は男達の度量を既に見抜いているようだ。
 焦ってもいず怯えてもいず、いつもの冷静な啓次郎だった。
 啓次郎の言うとおり、ただの不良だ。ただのガキなのだ。
「この男が少しでも手を出したら、その女の首を掻っ切れ」
 オールバックがふりむいた。啓次郎はずっと、同じ恰好で立ったままだ。
「本当に臆病者ね。女を人質にとらないと喧嘩一つ出来ないわけ?」
「うるせえ」
 金髪男が朱音の頬を張り倒した。そして、むき出しになった乳房を弄びだした。
「汚い手で触らないで」
「後でぼこぼこに犯してやるからな」
 次の瞬間、啓次郎がオールバックの顔面に拳を叩きこんだ。体重を乗せ、右の拳を突き出すような感じだった。オールバックが仰むけに吹っ飛んだ。畳に倒れたオールバックの腹を蹴りあげると、男が身体を折った。オールバックの身体を飛び越え、朱音のほうに突進してきた。
 茶髪男が立ちふさがった。ふたりが絡み合い、倒れた。
「お前は女をおさえていろ!」
 丸刈り男を怒鳴りつけると、オールバックが鼻から血を流しながら、茶髪男を組み伏せている啓次郎の後頭部を後ろから蹴りつけた。
 頭を抱えて啓次郎が倒れた。起き上がろうとした彼が茶髪男に蹴られた。また倒れた。
 オールバックと茶髪男が倒れている啓次郎を蹴り続けた。啓次郎は身体を丸くした。二人の男の足が、続けざまに啓次郎の全身に食いこむ。
 啓次郎が呻いた。背中を丸め、腹は両腕で庇っていた。
 茶髪が啓次郎を後ろから抱え上げ、引き起こした。オールバックが鼻血を手で拭っている。
「無茶するぜ、この野郎」
 背広は笑いながら啓次郎の顔面を殴った。啓次郎の頭が落ちだ。
 オールバックが拳を振り上げたとき、啓次郎が男の股間を蹴りあげた。オールバックが這いつくばった。腰を落とし、腰を捻りながら前に飛び込むように倒れた。後ろから羽交い絞めしている茶髪男を振りほどこうと、畳の上を転がったが、それでも茶髪男は啓次郎から離れなかった。
 オールバックが立ちあがった。もう笑ってはいなかった。茶髪男に組み伏せられている啓次郎の腹を蹴りあげた。
 二度、三度と、足先を彼の脇腹に叩き込む。啓次郎が動かなくなった。
 茶髪男が手を放した。啓次郎が腕を突っ張った。立ちあがろうとしている啓次郎の体が飛んで仰むけになった。蹴られたのだ。
 また立とうとした。蹴倒された。彼の顔にむかって足先が飛ぶ。
 男達の笑い声。もう一度、彼が立とうとした。そして、うつぶせに倒れた。
 茶髪男がまた啓次郎を後ろから抱きかかえて羽交い絞めにした。オールバックが近づいていき、啓次郎の顔面を殴った。啓次郎の上体がガクッと後ろに倒れた。茶髪男が、倒れてきた啓次郎の身体を羽交い絞めしたまま腕で前に押した。
 啓次郎の体が揺れた。次の瞬間、啓次郎がオールバックの顎のあたりに、頭を叩きつけた。
 オールバックが顎を押さえて倒れた。
「この野郎!」
 立ち上がったオールバックが、啓次郎の顔面を殴り、腹を蹴った。
 ふたりとも体格が良く、力も強いようだった。啓次郎もなすすべがない。
 オールバックの拳が顎を突きあげた。啓次郎の頭がのけ反る。今度は腹を殴る。オールバックが息を弾ませていた。額の汗が流れ落ちるのが見えた。
 眼の下に拳を叩き込む。次に間を置かずに左の拳。
 荒い息遣いが聞えた。オールバックと啓次郎の息遣いだった。
 見てられなくなり、朱音は眼を背けた。

逃れの海峡 8



8.逃避行

 朝八時。熱いシャワーを浴びた。
 結局、明け方まで三回、セックスをした。腰の辺りが自分のものでないような違和感があった。
「やりすぎだろ」シャワーを浴びながら、ひとりごちていた。
 ベッドルームに戻ると、啓次郎がソファに座ってコーラを飲んでいた。朱音はベッドに戻り、裸でシーツにくるまり、啓次郎を見た。
「九時には出ないと、追加料金払わないといけなくなるわ」
「そうだな、それほど暇じゃないし」
「韓国にはいけないわ」
 啓次郎がチラッと朱音を見た。
「あたりまえでしょ? 夢見る少女じゃないんだから。いい年した大人の女が、今まで築いてきた生活を何もかも捨てて、知り合ったばかりの男と身一つで外国に駆け落ちだなんて、どんな安物ドラマよ」
 啓次郎が笑った。
「それに、安西さんって人の復讐もやめなさい」
 啓次郎の目が、鋭くなった。
「このまま釜山に逃げるのよ。今なら上手く行くんじゃない? ぐずぐずしてると、あいつら、いろんなところに手を回し始めるわ」
「君はしっかりしてるんだな。まさにそれが連中のやり方だ」
「どうやって逃げるの? 成田から出国? 空港は見張られてるわね」
「空港は使えないな。奴らの他に警察も俺のことを探しているだろうしな」
「どうするの?」
「別の身分で船で逃げるのさ。知り合いが沼津にいる。逃がしを専門にしている男で、全国の港に伝手がある」
「じゃあ、その男に会いに行きましょう」
 ベッドから下りて、床に落ちていた下着を拾い上げた。
「君を家まで送っていってやりたいが、マンションは連中が見張ってるだろう。近くの駅まででいいかい?」
「何言ってんのよ、ここまでさせておいて。あんたが船に乗るまで見送ってあげるわ」
 ベッドに腰掛け、ブラジャーをつけた。啓次郎が朱音が服を着るのをじっと見ていた。
「何見てんのよ。あんたも早く服を着なさい」
 ホテルを出ると再び小菅で首都高速に上がり、中央環状線を経て渋谷から東名高速道路に入った。
 車内ではほとんど言葉を交わさなかった。車内の沈黙の時間を、それほど苦痛に感じない。過去に付き合った男は大学時代を含めて三人。一番長く続いた最初の男に、啓次郎は似ている。彼と一緒にいるときも、沈黙は気にならなかった。
「ねえ、あんたって、殺し屋なの?」
「え?」
 不意を衝かれたのか、啓次郎が間抜けな顔をしたので、思わずくすりとわらった。
「お金でそのなんとかって会長を殺したの?」
「金のためじゃない」
「じゃあ何? 恨み?」
「ダチを殺された」
「でも、それが原因で安西って人も殺されちゃったの?」
「俺も安西も、最初から殺されることは覚悟の上だ」
「それで、今度は安西さんの敵討ちってわけ? なんか、際限ないね」
「そういう世界なんだよ」
「でも、安西さんの敵討ちは諦めなさい。私の目の前で人殺しは許さないから」
 啓次郎が軽く頷きながらため息をついた。
 沼津に着いたのが午後一時過ぎだった。三時間、ほとんど休憩を取らず走りっぱなしだったので、腰が鈍く熱を帯びていた。
「お腹空いたわ」
 目の前にあった喫茶店を指差した。啓次郎が駐車場に車を滑り込ませた。
 階段を昇って喫茶室には入る。
 オーダーの後、「電話してくる」といって、店の外に出た。
 カウンターの上に、客がおきっぱなしにした新聞が目に入った。席を立ってカウンターまで行き、新聞を持って席に戻った。
 広げてみると、安西のことが出ていた。歌舞伎町で尽誠会の会長が殺された事件の報復と見て、尽誠会の事務所が家宅捜査されたと書いてある。
 矢矧啓次郎の名前はどこにも出てきていない。
 まだ啓次郎のことは知られていないのか。それとも警察がマスコミにもらさないようにしているのか。
 日替わり定食が出てきたとき、啓次郎が戻ってきた。
「知り合いは明日まで帰ってこないそうだ。今夜はここで泊まるしかないな」
「その男、本当に頼りになるの?」
「そのはずだ」
「頼りない返事ね」
「まあ、色々あるんだよ。筋の通った男だから、めったなことはしないよ」
「滅多なことって?」
「俺達のことを尽誠会に売るとか」
 思わず息のが詰まった。
「裏社会じゃ、さまざまな連中が情報網が張り巡らしている。先に情報を掴んだものがすべてを手にする世界なんだ。金のために誰かを裏切り、敵に売り渡すのは珍しくない」
「人間不信になっちゃいそうだわ」
 食後のコーヒーが運ばれてきた。客は三組。昼の繁忙時は過ぎている。
 コーヒーに砂糖を入れ、ミルクをちょっと垂らしてスプーンで掻き回した。香ばしい香りが鼻を突いた。香りの強いコーヒーだった。
 熱いまま口に運び、ひと口飲んだ。美味しいコーヒーだった。
「ホテル、探さないとね」
「ホテルは警察の手が回っているかもしれない。連中に見つからないところにアパートを捜して借りた」
「アパート?」
「今流行りの民泊だよ。予約も簡単なんだよ」といって、朱音にスマートフォンをかざした。
「あまり綺麗じゃないけどな」
「贅沢は言わないわ」
 結局、一時問ほど時間を潰した後、店を出た。
 予約した部屋は海のそばにあった。駐車場に車を停めて狭い路地を歩く。太陽のさしこまない谷底のようだった。狭い路地の両側に古い建物がすきまなく並んでいて、複雑なカオス空間を形作っていた。
 啓次郎の肩にもたれるように歩いた。足元がふらついている。昨夜の疲れがまだ残っていて、身体がだるい。
 近くの民家で鍵を借りた。大家なのだろう。
 アパートの前に立つ。確かに余り綺麗じゃない。玄関を入って奥の部屋まで進む。
 部屋は綺麗だった。三畳と六畳の和室で、二畳ほどのキッチン。トイレは広く床がタイル張りで、風呂はないがシャワーがついていた。湯も出るようだ。
 床に横になった。畳の上に寝転がるなど、最後に実家に帰って以来だ。
「少し眠るわ」
「そうだな」
 啓次郎が横に寝転がった。横から彼の身体を抱いた。啓次郎はもう寝息を立てていた。

 眼を覚ましたのは五時過ぎだった。
 外は薄暗くなり始めている。
 啓次郎はまだ寝息を立てていた。彼を起こさないようにそっと起き上がった。喉が渇いていた。玄関にジュースの自動販売機があったのを思い出した。
 財布を持って廊下に出た。
 廊下の両側に部屋が並んでいる。窓がないので蛍光灯が消えると真っ暗になるだろう。天井や壁のいたるところに染みが広がっている。かなり古いアパートだ。
 泊まっているのはおそらく外国人ばかりだろう。宿泊客ばかりでなく、住人もいる。
 コーラを買って部屋に戻った。
 ドアの鍵をあけたとき、いきなり後ろから口を塞がれた。
「声を出すんじゃねえ」
 首筋にナイフを突きつけられた。全部で三人いる。見覚えはない。
「矢矧は中にいるんだろ?」
 脚が震えてきた。尽誠会だ。
「こんなところに隠れやがって。俺達が気づかないとでも思ってたのか?」
 がっしりした体格の男が目の前に立った。
 いきなり胸を鷲づかみにされた。
「いい身体してやがる。矢矧とはやったんだろ? 奴も死ぬ前にいい思いが出来て本望だろうな」
 男がドアを開けて踏み込んだ。ナイフを突きつけられたまま、朱音も部屋に押し込まれた。
 啓次郎は起きていた。
 仁王立ちになって男達を睨みつけていた。

逃れの海峡 7



7 南へ……

 啓次郎のベンツは加平インターから首都高速に上がった。
「新宿歌舞伎町で暴力団幹部が殺されたんだってね」
 啓次郎は前を見たまま、何も言わない。
「あんたがやったの?」
 前を走るクラウンを追い越した。午前一時。高速道路にはまだ車が多い。
「安西って人、殺されたんでしょ? 私の部屋に来た夜、あんたのスマホに電話をかけてきた人なんでしょ?」
「君には迷惑をかけた」
「そんなことを言って欲しいんじゃない。私の質問に答えて」
 ベンツが速度を上げた。
「ああ、俺がやった。安西は俺の昔の仲間でね。田所の居場所を探り出して俺に教えてくれたんだ」
 田所。たしか、啓次郎が殺した暴力団幹部だった。
「それで、どうする気? これから死ぬまで一生逃亡生活するつもりなの」
 ベンツが大型トラックを追い抜いていく。何キロ出ているのだろう。かなりの高速で巡航している。
「自首しなさい」
「それはできない。死刑になっちまう」
「一人殺したくらいじゃ、死刑にならないわよ」
「もう一人、やらなければならなくなった」
 驚いて啓次郎を見た。
「武野の名刺をもらったって言ってたな。安西の仇なんだ。安西を殺したのは武野だよ」
 朱音は黙って運転する啓次郎を見ていた。
「さすがにふたりぶっ殺したら死刑だ」
「つきあってられないわ」
「悪かった」
「その武野ってのを殺した後はどうするの?」
「海外に逃げる。釜山に仲間がいるんだ」
「安っぽいやくざ映画みたいね」
「現実ってそんなもんだよ」
「で、私に何の用?」
 啓次郎がしばらく口を噤んだ後、深いため息をついた。
「手を貸して欲しい」
「私に殺人の共犯者になれっていうの?」
「安西が死んだ今、頼れるのは君だけなんだ」
「一回寝ただけの男に、どうしてそこまでしなくちゃいけないわけ?」
「上手く説明できないんだが、君なら強い味方になってくれると思ったんだ」
「私にその武野って男の内情を調べろとでも言うわけ? 言っとくけど、やくざの内通者に知り合いなんていないの」
「そんなことは頼まないよ。それに、武野のことはよく知っている。君には俺の代わりに色々動いてもらいたいんだ。海外に逃げる準備とかね」
「散々利用したあと、用済みになった私をどうするの? 捨てる気? まさか、殺したりしないよね」
「一緒に韓国に行こう」
「はあ?」
「君を韓国に連れて行く」
 言葉が出なかった。この男の思考回路はいったいどんな仕組みになっているのだろうか。
「とにかく、今夜はどこかに泊まりましょう。私のマンションは見張られているだろうし、あんたの住処に戻るわけにもいかないでしょ?」
「都心に出たほうがいいな」
「都心じゃ、こんな時間、どこも泊めてくれないわよ。小菅で降りて川沿いを走って。あの辺りのラブホテルなら、この時間でも入れてくれるわ」
 高速を降りて荒川沿いを走っていると、ラブホテル街が広がる一角に出た。正方形のアルミパネルで覆われたホテルが目に入った。建ったばかりなのか、綺麗なホテルだった。
「そこのホテルにしましょう」
「どうして? 来たことあるのかい」
「ないわよ。お城みたいにけばけばしくないから」
「中身はどこも同じだよ」
 車を駐車場に停めて中に入る。エントランスを過ぎて暗いロビーに入った。壁に埋めこまれた部屋の写真のパネルはほぼ灯が消えて、数枚の空き部屋を残すだけだった。そのうちの一枚にふれた。
 自動音声が流れる。エレベーターで七階に上がると、廊下の壁が点滅して奥に進むよう誘導してくれている。その先でドアの上にある七〇八のパネルが点滅している。
 ドアを開ける。玄関の足元に青いLEDが光っていた。通路の奥にガラス扉があり、朱音と啓次郎が映っていた。
 後ろから、いきなり啓次郎が朱音の身体を抱きしめた。
「ちょっと……」
 啓次郎は朱音の身体を自分のほうに向け、抱きすくめてキスをした。長いキスだった。
 キスをしながら、朱音の服を脱がせていく。
「何よ、いきなり。部屋で少し休みましょう」
「今、ここでしたいんだ」
「ここでって……?」
 おたがいの濃厚な体臭で、全身の感覚が敏感になっている。啓次郎がブラジャーをずらし、乳房を両手で鷲づかみにした。
 乳首をなめあげられ、思わず声を上げる。
 朱音は啓次郎のズボンに手を伸ばした。ズボンの下で彼が既に硬く熱を帯びている。啓次郎がワンピースをたくしあげ、下着の上から朱音の性器に触れる。
 布の上から執拗に刺激され、朱音は立て続けに声を漏らした。啓次郎のズボンのベルトをはずし、ファスナーを下ろした。ボクサーショーツから彼の硬くなったものを取り出し、その形と大きさを確かめるように手で軽く扱く。
 朱音は身体を折って、啓次郎のペニスを口に含んだ。それは驚くほど熱かった。朱音が奉仕している間、啓次郎は優しく髪をなでていた。
 朱音も、これ以上我慢できなくなってきた。最後にペニスの先を強く吸いあげ、口を離した。
「ねえ、後ろから入れて……」
 床に両手をついて、尻を彼にむけた。啓次郎がワンピースをめくり、下着を引き剥がすように下ろした。
 自分の性器の匂いが漂ってきた。
 啓次郎が朱音の尻を両手で引きあげるように割った。
「早く……。あ、でも、中で出しちゃ、駄目よ」
「わかってる」
 彼がゆっくりと侵入してきた。太いペニスが、肉襞を押し広げながら奥に入ってくる。朱音は背中を仰け反らせて声を上げた。
 啓次郎がリズミカルに動く。先端が朱音の奥の扉を叩く。短い悲鳴のような声が響く。
 啓次郎は、腰を動かしながら右手をまわし、朱音の敏感な場所を指でなでる。
 朱音の声が断続的に反響する。
 ペニスの律動と指の刺激で、朱音が最初のエクスタシーを迎えた。
 二人は折り重なるようにそのまま廊下に倒れこんだ。ふたりの荒く息を継ぐ音だけが響いていた。
 ブラジャーが上にずれ、腰にワンピースのスカートをまくりあがっている。啓次郎のペニスが、天井を向いている。
 啓次郎は朱音からブラジャーとワンピースを剥ぎ取ると、自分も服を脱ぎ捨てた。そして、朱音の身体を押し倒すと、上に覆い被さってきた。
 さっきより乱暴に、彼が入ってきた。先ほどの行為で性器が口を開いていたからか、すんなりと入ってきた。
 啓次郎がどこで生まれ、どんな人生を歩んで、これまでどんな女を抱いてきたのか、朱音は知らない。恋人でもない。それどころか、この男は人を殺している。それなのに、こうして心と身体がつながってしまっている。
 不思議に、少しだけ泣きそうになった。
 朱音が彼の逞しい体を抱きしめた。壊れるんじゃないかと思うくらい激しく乱暴に、啓次郎が攻め立ててきた。朱音は激しく揺さぶられながら、あっという間に二度目の絶頂に達した。


逃れの海峡 6


6 夜の公園 

 落ち着かない。時間が経つのがいつもより長く感じる。
 ベッドから腰をあげ、窓を開けた。この暗闇のどこかから、尽誠会の連中がこちらを見ている気がする。
 午後十一時四十分。部屋の明かりを消した。
 先月、ウィンドショッピングで見つけたゆったりしたワンピース。可愛いと思ったが、家で着てみて似合わないと思い、クローゼットにしまいこんでいた。もう着ることはないと思っていたが。
 ワンピースに着替え、上からさらにギャザーワンピースを羽織った。セリーヌのトートバッグには下着やら必要な日用品を詰め込んでいる。
 ワンピースの下にトートバッグを押し込むと、ぱっと見た感じは妊婦に見える。外の暗さじゃ、ぱっと見られたぐらいじゃ、ばれることはない。
 部屋を出て、地下駐車場に降りた。
 正面玄関は見張られているだろう。地下一階で降りて、非常階段で地上に上がる。出口は周囲が木で囲まれているため、敷地の外からは見えにくい。
 朱音は周囲に誰もいないことを確認し、膨らんだ腹を抱えるようにして駐車場を突っ切る。道路を横切って公園に向かった。
 間もなく夜中の十二時。
 公園内に人影はない。夜は変質者が出るので誰も近寄らない場所だ。
 公園を横切って噴水に向かう。約束の時間を五分過ぎている。
 誰もいない。
 まさか捕まったのか。
 周囲に注意深く眼を走らせた。人の気配はない。まだ到着していないのかもしれない。噴水のそばのベンチに腰掛け、ワンピースの下に隠していたトートバッグを取り出した。
 さらに十分が過ぎた。啓次郎が姿を見せる様子はない。
 まさか、ここに来る途中に捕まったんじゃ……。
 その時、噴水の向こうから人影が近づいてきた。大柄な男だった。
 朱音がベンチから腰をあげた。
 遅かったじゃない。抗議の言葉を口にしようとしたとき、明かりの下に金髪を逆立てた男が現れた。
 男の顔に見覚えはなかった。
「こんな時間に何やってんだ?」
 男は煙草に火をつけて、勢いよく煙を吐き出した。
 派手なジャケットに白いシャツの襟を出し、白い胸をはだけさせている。二十代後半。朱音の嫌いなタイプだった。
「人を待ってるのよ」
「男にすっぽかされたんだろ?」
 男が目の前に立ち塞がった。かなり上背がある。肩幅も広いが腹にもたっぷりと肉がついている。
「ねえちゃん、ちょっとつきあってくれや」
 いかにも頭の悪そうな男だ。
「嫌よ」
「つれねえこというなよ」
 腕を掴まれ、悲鳴を上げた。
「離して!」
「騒いでも誰もこねえよ」
 男が朱音を引きずっていく。抵抗して腕を振りほどこうとしたとき、目の前がきらりと光った。
「騒ぐんじゃねえ」
 ナイフが目の前で光っている。水銀灯の光を反射しているのだ。
「そこの茂みでちょっとじゃれるだけじゃねえか。ちいっと我慢してくれりゃ、すぐに終わるんだ。こんなつまらねえことで命を失うこたぁねえだろ?」
 脚が震えてきた。
 男が突然振り向いた。暗い公園を見回しながら、人影が近づいてきた。
「啓次郎……」
 男が啓次郎を睨みつけた。
「今おとりこみ中なんだよ、あっちに行ってろ」
 啓次郎が男を見つめたまま、ズボンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。男が朱音の腕を離して啓次郎のほうを向いた。
「向こうに行ってろといっただろ」
 男がナイフを突き出した。
 啓次郎がひるむことなく、一歩踏み出した。水銀灯に照らされた男の顔に、微かな怯えの翳が走った。啓次郎がさらに男に近づく。男がナイフを持つ腕を突き出したまま、後ずさった。
「やろうってのか、この野郎……」
 男は完全に怯えていた。眼が落ち着きなく動いている。啓次郎は表情も変えず、男に近寄っていく。
「死にてえのか、てめえ」
 眼を剥きだしにして威嚇しながら男がさがった。
 啓次郎が踏み込んだ。男が短い悲鳴を上げ、上体を折った。そして、仰向けに倒れた。
 朱音が悲鳴を上げて後ろに飛びのいた。男の背中に隠れて啓次郎の動きはわからなかった。
 仰むけに倒れた男が、首を持ちあげて、啓次郎を見た。
 踏みこみ、立ち上がろうとした男の腹を啓次郎が蹴りあげた。男は転がって腹這いになり、身体を折り曲げたまま、その場で吐いた。
 さらに、倒れたところを蹴りつける。男の顔や脇腹に、靴先がめり込む。
 最後に男の顎を蹴りあげた。地面を転がった男は倒れたまま動かなくなった。
「いい加減にしなさいよ、殺す気?」
 朱音が啓次郎を睨みつけた。
「元はといえば、遅刻してきたあんたが悪いんでしょ? 時間厳守って言ったのに」
「時間より前に来ていたさ。ただ、そこの茂みに隠れて様子を窺っていたんだよ」
「はあ?」
 啓次郎が静かな眼で朱音を見ている。朱音が連中につけられていなかったか、確認していたのだとわかった。
「車は?」
「近くの路上に停めてある」
「いきましょう」
 啓次郎の手を引いた。

逃れの海峡 5



5.電話

 午前十時。
 窓を開けて外を見る。とっくに目覚めている街は活気に溢れていた。前の道路を、手をつないだ大学生らしきカップルが歩いていく。朝ゆっくり起きて一緒に登校か。
 窓から周囲を見回す。怪しい男も車もいない。
 実家に電話をかけると、母が出た。
「おや、珍しい」
 そういえば、実家に電話をするなど久しぶりだ。ちょっとした用事は妹経由でSNSで伝えている。
「美雪は?」
「大学に行ったわよ」
 妹は自宅からフェリスに通っている。父親が一人暮らしを許さないのだ。朱音には何を言っても無駄だと思っていたのか、一人暮らしをしたいといったときは何も言わなかった。
「何か変わったことは?」
「何もないわ」
「怪しい人とか来なかった? 電話は?」
「何それ? 何かあったの?」
 下手に母を心配させると面倒なことになる。
「振り込め詐欺とか大丈夫かなって思って」
「心配ならたまには帰ってきたら?」
「仕事が暇になったらね」
「いつもそんなこと言って、全然家に顔出さないじゃない」
 どうやら、何事もなさそうだ。家族の安全を確認したらもう用はなかったが、結局、三十分以上も話し込んでしまった。
 最後に、今度の休みに帰ってくるようにといって、母が電話を切った。
 妹の美雪とは週に一回は会っているが、思えば、両親とはもう三か月は会っていない。
 姉の眼から見ても、美雪は可愛い妹だ。色白の美人で清楚で上品で、姉のようながさつさもない。男と付き合ったこともなく、まだ処女だ。このまま悪い虫がつかないように大学を卒業させてそこそこの企業に勤めさせ、医師免許を持つ婿をもらう。美雪には江島医院の跡継ぎを捕まえるという大役をこなしてもらわなくてはならないのだ。
「さてと」
 窓を閉めてベッドに寝転ぶ。昨夜遅くにスマートフォンで見つけたニュースにもう一度目を通す。
 啓次郎がこの部屋を出て行った次の日の夕方、新宿歌舞伎町で暴力団幹部が刺殺された。犯人は百八十センチ以上の大柄な男で現在も逃走中とある。
 普段は何の関心もなくスルーしている類のニュースだが、昨夜はすぐに眼に留まった。
 そして昨日、港区の倉庫で若い男が撲殺された。
 名前は安西博信。暴力団の準構成員。暴力団同士の抗争とみて警察は調べているらしい。
 前日の暴力団幹部が殺された事件との関連について検索したが、どのニュースにも出てこなかった。
 安西。
 あの夜、啓次郎のスマートフォンの液晶画面に出ていた名前だ。
 たまたま同じ苗字の人から電話があっただけ、彼はあの事件とは無関係よ、などと思うほど、おめでたい女ではない。
 安西博信を殺したのは暴力団員であり、理由は前日の歌舞伎町での幹部殺害事件に関係していたから。
 そして、暴力団幹部を殺した大柄な男が、矢矧啓次郎なのだ。
 幹部を殺された部下の暴力団員が啓次郎を探していた。昨夜、朱音を車に押し込んだ連中だ。
 テーブルに置いてある名刺を手に取った。太い毛筆体で書かれた文字。
 三代目尽誠会副会長、武野雅臣。
 尽誠会をスマートフォンで検索したら、社会福祉法人やら医療法人やら怪しそうな団体の名前がくっついて出てきた。
 しかし、あの男は社会福祉法人の副会長でも医療法人の副院長でもない。がちのやくざだ。
「嫌んなるわね」
 ベッドの上でひとりごちていた。

 外をうろつくのは危険と判断し、部屋で過ごした。しかし、仕事をサボるわけには行かない。
 午後五時、いつもどおり部屋を出た。北綾瀬から東京メトロ千代田線で日比谷に出て日比谷線で六本木へ。途中、怪しい人影は目にしなかった。
 女の子が二人、開店準備していた。店を掃除しグラスを磨いているうちに開店時間となり、ぽつぽつ客が入りだした。
 男がひとり、入ってきた。見るからにその筋とわかる男だった。そんな人種に慣れた女の子が愛想笑いを浮かべ、注文を聞きに行く。
 隅のカウンターに座りひとりで飲み始めた。時折視線をこちらに寄せる。明らかに朱音を見張っている。
 馬鹿じゃないの。私を見張ってどうすんのよ。
 睨み返してやったが、男の表情は変わらなかった。
 女の子たちが不安そうな顔をする。こんな日に限って諒子は休みだった。
 本当に、いざというときに役に立たない子だ。
 店は開いたばかりだ。金曜日なので客の入りもいい。バイトの女の子達が次々やってきて、キャストが六人になった。少し心強い。
 男は相変わらず、カウンターの隅で一人で飲んでいる。
 好きなだけ粘ればいい。どうせ彼はやってこない。飲んだ分お金を払ってくれるなら、いくら粘ってくれてもかまわない。
 出来るだけカウンターの隅の男を避け、若い客を相手に馬鹿話をしていた。
 後ろから肩を叩かれた。アルバイトの女の子がコードレスフォンを持っている。
「朱音さん、電話なんだけど」
「だれ?」
「マンションの管理会社のもんだって」
 受話器を受け取って耳に当てた。
「もしもし」
「やあ……」
 心臓が止まりそうになった。思わずカウンターの隅の男を見た。こちらに気を配らず、相変わらず一人で飲んでいる。
「あなたなの?」
 受話器に向かって囁いた。声が上ずった。
「あなた、なのね?」
 ああ、とだけ矢矧啓次郎は言った。しばらく、言葉が途切れた。
「今、どこにいるの?」
「君の店の外だよ」
「すぐに逃げて」
 受話器を持って、スタッフルームに入った。
「尽誠会の連中が店に来てるの。私を見張ってるのよ」
「そうか」啓次郎は特に驚いた様子は見せなかった。
「連中、君に接触してきたんだな」
「武野って男から名刺をもらったわ。どこかの社会福祉法人の副会長らしいけど」
 受話器の向こうで、啓次郎がわらった。
「迷惑をかけた」
「気にしなくていい。平気よ。あんな奴らに負けないわ」
「そうか、強いな、君は。武野に睨まれたら大の男でもびびっちまうのに」
 私も怖かった。そういおうとしてやめた。今弱音を吐いても啓次郎を困らせるだけだ。
「逃げ場所に困ってるんでしょ?」
「正直いうと、君の手を借りたくて電話したんだ」
「私のマンションもあいつらに割れちゃってるわ」
「そうか。いや、悪かった。気にしないでくれ。君に迷惑はかけられない」
「待って、切らないで。私のマンションの前に大きな公園があったでしょ? しょうぶ沼公園っていうんだけど、公園の中に噴水があるわ。そこに夜の十二時に行くから待ってて。私のマンションは連中が張っていると思うから近づかないで」
「しかし……」
「迷惑ならもうかけられてるわ。いいわね、時間厳守よ。私は時間にルーズな男は嫌いなの」
 そういって、啓次郎が何か言う前に先に電話を切った。
 顔が火照るほど、胸が高鳴っていた。

逃れの海峡 4


4.裏社会の男

 空のグラスの中で、氷の球が光っている。
「しっかりしろ、ア、カ、ネ」
 尻を叩かれ我に返る。諒子が睨みつけていた。
「早くグラス洗え。溜まってきてるじゃん」
「わかってるわよ」
 グラスの中の氷をシンクに転がし、グラスを洗う。
「あんたがそんなに未練たらたらになるなんてね」
「なってない」
「昨日からずっと上の空じゃん」
「うるさい。ちゃんと働いてるわよ」
「そんなにいい男だったの?」
「あんたも横で見てたでしょ?」
「まあ、いい男だったけど。それに、あの手の男はあっちのほうも立派なのを持ってるようだし。で、よかった?」
「内緒」
「でも、堅気じゃないよ、あれ」
 手を止めて諒子を見た。
「見りゃ、わかるわよ。あんたの倍以上、男知ってんだから」
 二人組の客が帰っていく。相手をしていた女の子が、外まで見送りに行った。店にいる客は二人だけになった。
「やくざと付き合ったこと、ある?」
「やくざはいなかったわ。半グレならいたけど。でも、この前の男は相当やばいわよ」
「どう見てもやくざには見えなかったわ」
「あの鍛え方はやばいわよ。地下格闘技とかやってたんでしょ? あんなところ、やくざと不良の巣窟よ。一夜限りの関係でよかったと思いなさい。ああいう男が、女を不幸にするんだから」
 諒子が慰めてくれていることはよくわかっているが、彼女の言葉を聞いているといらいらしてきた。
 店のドアが開いた。思わず顔を上げた。四十過ぎの小太りの男だった。
 諒子にまた尻を叩かれた。
 十時を回った頃には、店から客がいなくなった。朱音はさっさと着替えて店を出た。
 むくんだ足で階段をのぼり、地上に出た。
 駅に向かう人たちの流れに乗って、足を引きずるようにして歩く。いつもどおりの仕事だったのに、足が重くてだるい。空気が膨大な量の水分を溜め込んでいて、重くて不快だった。空は厚い雲で覆われていて、低い雲に街の灯が反射している。
 電車で帰る気分になれなかった。雨に降られてはかなわない。タクシーを捕まえようと大通りに出た。路上には客を待つタクシーが並んでいる。この時間、空車はいくらでもいる。
 タクシー乗り場に向かっているとき、短いクラクションに背中を突かれた。振り向くと、十メートルほど離れた場所に停まっていた黒のアルファードがヘッドライトを消したまま、ゆっくりと擦り寄ってきた。
 朱音の横でとまったアルファードの後部ドアが開いた。鋭い眼をした男がこちらを見ている。
「乗りな」
 薄く冷たい眼に思わず足が竦んだ。素早く踵を返したが、既に男達に囲まれていた。店からつけてきていたのだ。
「大声、出すわよ」
「気の強い姉ちゃんだな。しかし、いくら騒いだって、ここにいる誰もが俺達と関わりたくないって思ってるんだぜ」
「私、もう帰るんだから」
「タクシーを探していたんだろ? 北綾瀬まで、送ってやるぜ」
 顔から音をたてて血の気が引いていくのを感じる。この男は朱音の部屋を知っている。
「びびるんじゃねえよ。何もしやしねえから、顔貸してくんなよ」
 二人の男が、朱音を挟みこんだ。周囲を見回す。逃げるのは難しそうだ。それに逃げたって、部屋を知られている以上、何をされるかわからない。
 二人に押し込まれるように、アルファードの後部座席に乗った。朱音の左横に若い男が座った。車が路肩を離れ、三車線の道路の中央を巡航し始めた。
 突然、右の男が朱音の上着のポケットを探った。
「何するのよ!」
 男がスマートフォンを取り出した。隠し撮りしていたのがばれている。男がスマートフォンのスイッチを切った。
「江島朱音。フェリス出てんのになんでガールズバーなんかで働いてんだ?」
 喉が粘ついた。震えそうになる脚に力をこめて堪えた。この男はこちらのことを調べ尽くしている。
「フェリスの出身者が全員お嬢様だなんて思わないで」
「そのようだな。俺ゃ、お嬢様よりあんたみたいな女のほうがタイプだぜ」
「私はごめんよ」
 男が笑った。
「でも、妹はなかなか可愛いじゃないか。娘ふたりをフェリスにやるなんざ、さすが医者だな」
 その気になればなんだって嗅ぎ付けてやるという、連中の脅しだ。
「私の家族に手を出したら承知しないから」
「矢矧啓次郎、どこに行ったんだ?」
 朱音が男を睨んだ。男がいやらしく口角を上げた。
「奴といいことしたんだろ? 部屋を出るとき、どこに行くか言ってなかったかい?」
「あんたたちは?」
「訊いてんのは、こっちだぜ」
「知らないわよ。やることやったら、さっさと部屋から出て行ったわ」
 車がスピードを上げた。男の横の窓の外に、暗闇に広がる都心の光が広がっている。高速道路を走っているようだ。
「あんた、奴に惚れてんのかい?」
「馬鹿いわないで」
「男に声をかけられたら、いつでもほいほいついていくのかい?」
 朱音がまた男を睨んだ。相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。
「私だって、たまにはやりたいときくらいあるわよ。あの日はたまたまそんな気分で、偶然彼が声をかけてきただけ」
「今夜は俺が付き合ってやるぜ」
「ごめんだわ」
 いきなり髪を強くつかまれ引き寄せられた。車内に朱音の悲鳴が響く。
「もしもこの先奴が戻ってきても、匿おうなんてするんじゃねえぞ。奴が現れたら俺達に知らせるんだ。もし隠したりしたら、さんざん輪姦した後に、証拠が残らないよう生きたまま東京湾の沖に沈めてやる。世に溢れてる行方不明者のひとりになるんだ。言っておくが、俺達が本気で死体を隠したら絶対にみつからないんだぜ」
 男が手を離した。全身ががたがた震えてきた。堪えきれなかった。
 男が上着の内ポケットから名刺を取り出して、朱音の胸ポケットに押し込んだ。
 車が停まった。ドアを開けて、左側の若い男が車の外に出た。ドアの向こうの見慣れた風景が目に入った。マンションの前だった。
「着いたぜ」
「彼……何したの?」
「あんたには関係ないことさ」
「気になるじゃない。遊びとはいえ、抱かれた男なんだから」
「降りる気はあんのかい?」
「あなた達と何か揉めたの?」
「降りていいって言ってんだぜ。それとも、俺達と楽しむ気になったのかい?」
 朱音は車を降りた。黒のアルファードがゆっくりと離れていく。やがて、赤いテールランプが闇の中に消えた。
 身体の震えはいつの間にか止まっていた。


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アーケロン

Author:アーケロン
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