15(最終章).岬
唐津市に入った。パトカーが二台、停まっていた。
啓次郎は車を走らせた。
酷い道に入った。絶壁沿いで、しかも曲がりくねっている。十メートルさきも見通せない場所が続いていた。
啓次郎がクラクションを鳴らした。
「酷い道ね」
「だが、検問が敷かれている様子もないな」
「安西さんの仇、討ったのね」
啓次郎は前を見たままハンドルを握っていた。余所見をする余裕などなさそうだ。
「君もたいしたものだ。あんな場面を見ても平然としている」
「平気じゃなかったわ。あなたのことが心配だったの」
ブレーキの軋みが、車内に響く。
「あいつら、どうして私たちがここにいることがわかったのかしら」
「当たりをつけていたんだろうな」
「でも、確信していたって気もする。あの武野って男、尽誠会じゃ、トップなんでしょ? あなたが呼んだんじゃないの? 日本を発つ前に安西さんの仇を討つために」
絶壁沿いで、しかも曲がりくねっている。十メートル先も見通せない場所が続いていた。ひどい道だ。
「君の言うとおりだ。俺がここにいることがわかれば、武野が出張ってくるのはわかっていた。連中のルールでね。兄貴分を殺されたら警察に先を越させるまえにそのけじめをつけないと、いくら副会長でも組織の中じゃ認められないんだ」
車が方向を変えた。岸壁の端を走る。
追ってくる車もなかった。確実に呼子の岬にむかっている。
開けた場所に出た。周囲に田畑が広がっている。積みあげられた荷物、木造の倉庫、ライトバン。
「今なら引き返せる」
「え?」
「この先、どうなるかわからない。俺は君の安全を保障できない。それでも一緒に来るか?」
開けた窓から風が舞い込んでくる。髪が風に靡いていた。晴れているが、風があるので肌寒い。
「今なら、君が何かの罪に問われることはない。無理に付いてこなくってもいい」
「馬鹿にしないで。そんな話、二度としないで」
「俺は人殺しだぜ」
「だから何? 自分は特別だっていいたいわけ? 人殺しなんて世の中にいっぱいいるわ」
横から啓次郎を睨みつけた。啓次郎が笑っている。子供の眼。そんな感じがした。
「わかった。一緒に行こう」
サイドミラーに赤い光が二つ見えた。
距離をつめてくる。
「パトカーよ」
「ああ」
啓次郎はアクセルを踏みこんだ。肚はもう決まっている。パトカーがすく近くまで来た。けたたましいサイレンが耳障りだった。助手席の警察官の顔がサイドミラーからはっきり見える。こちらを見て口を開けていた。間抜けな顔をしている。
そのまま、海岸通りへ出る道を突っ走った。車体が跳ねる。民家が後方に飛んでいく。桟橋が見えた。向こうの島に渡る桟橋だ。
赤いライトが追ってきている。
車が増えていた。農家のライトバンや軽トラックが多い。赤信号を突っ切った。クラクションが追ってくる。左はどん詰りだ。右に曲がった。海岸線に沿って走り、それからまた右にハンドルを切る。入り組んだ道路に入った。
「飛ばすぞ」
カーブばかりが続く酷い道だった。彼の首筋に汗が見えた。
「運転、うまいのね」
「まあな。ガキの頃は暴走族や機動警察相手に好き放題、走りたいように走っていた。無茶な運転もかなりしてきたが、事故を起こしたことはないんだ」
「この道を真直ぐ行くと、目的の場所?」
「ああ、その先には道はない」
啓次郎がハンドルを切った。助手席の朱音が短い悲鳴をあげた。右は崖だった。左は山の斜面で、木が道にまで枝を出している。カーブの連続だった。見通しは極端に悪い。クラクションを鳴らし続けた。パトカーとの距離は空いている。曲がるたびに身体が右に左に傾く。
「無茶しないで」
「無茶しないと捕まっちまうぜ。ある意味、尽誠会より厄介な相手だ」
岬の最先端まできた。
二台のパトカーはまだ付いてくる。ルーフに赤色灯が光っている。
ひどい道路だった。曲がりくねっているうえに、未舗装だ。ただ、車はいない。
道路がいくらか低く、平坦になってきた。啓次郎はハンドルを掴み、シートに背中を押しつけている。運転はさすがにうまい。朱音は頭に手をやっていた。バウンドするたびに、天井にぶっつけるからだ。
家並が右下の斜面に見えてきた。急に対向車が突っこんできた。
啓次郎がブレーキを踏んだ。すれ違った対向車がスピンした。それを避けようとしたパトカーがガードレールにぶつかり、停まった。
「大丈夫か?」
朱音が頷いた。
「そこから岸壁を降りることが出来る。石段があるから下まで降りるんだ。そこで俺を待て」
「あなたは?」
「警官達をおびき寄せる」
「でも……」
「大丈夫だ。下まで降りれたら、俺たちは逃げられる」
朱音は頷いた。啓次郎が車から出て振り返った。眠が合った。行け、眼でそう言っている。
朱音は助手席のドアを開けて車から出た。
パトカーから警官が飛び出してきた。
走った。
パトカーから降りてきた男が、「あそこだ」と叫んだ。
轟音が響いた。銃声だ。警官達が地面に伏せた。啓次郎がこちらに向かって走ってきた。
警官が走った。朱音も啓次郎と並んで走った。すぐに息があがってきた。警官たちが追いかけてくる。
草むらを抜けると展望が開けた。眼下に、波が打ち寄せる岩場がある。啓次郎が斜面の下を指した。岩場に眼をやった。沖に、小さな除染が浮かんでいた。
石段を降りていくと、大きな岩が見えてきた。海のそばまで下りてきた。風が強い。時々飛沫が頼を打った。
背後で靴音がした。ふりむく。警官は全部で四人いた。啓次郎が警官達と睨み合った。朱音は石段を駈け降りた。もう一度ふりかえった。啓次郎が石段を振り返り、拳銃を構えていた。
啓次郎が引金を絞った。銃声が響く。警官達の姿は、朱音のいる場所からは見えなかった。啓次郎がまた警官に銃を向けて引き金を引いた。弾が出なかった。
朱音は海のほうを見た。漁船が様子を窺いながらゆっくりと近づいてきている。
啓次郎が警官達と睨みあっている。
私ひとりで逃げても意味ないじゃない……。
船のエンジンの音が聞こえてきた。振り向いて沖を見ると、漁船が離れていくのが見えた。
見捨てられたのだ。
啓次郎が拳銃を捨てた。そして、腰の後ろに差していたサバイバルナイフを手に取った。
何してるのよ……。
やめて……。
ナイフを掴んだまま、啓次郎は片足を石段にかけた。警官達は動かず、彼に拳銃を向けている。「逃げて!」
朱音が叫んだ。
啓次郎が一段ずつ、石段を登っていく。警官達が銃を突き出したまま何かを叫んでいる。
警官達まで約十メートルまで近寄った。
啓次郎の背中を見つめていた。また一歩、踏み出した。警官達が腰を引き、両手を前に出して構えた。
彼らの眼がぶつかり合っている。
啓次郎が姿勢を低くした。警官達が下がった。啓次郎が地面を蹴った。
轟音。
朱音の身体の中を、銃声が突き抜けていった。警官達の目が、恐怖で見開いている。
また銃声が身体を突き抜けていった。
啓次郎の身体がぐらりとゆれ、崩れるように倒れた。
(完)
14.仇討ち
霧のように細かい雨が降っている。
啓次郎は煙草を二本喫った後、布団に横たわり、じっとしていた。
朱音は窓を閉めた。本当に今日、日本を離れるのだ。自分が姿を消したら両親や妹はどれだけ騒ぐだろうか。ふと、そんな考えが頭を過ぎった。
しかし、もう決めたことだ。啓次郎と一緒に韓国に逃げる。それしか頭になかった。
仲居が部屋に朝食を用意してくれた。布団が片付けられて食事が並び終えられるのを、窓際の椅子に座ってぼんやり眺めていた。
「朝風呂に入っていかない?」
啓次郎が怪訝な顔をした。
「船にお風呂なんてないんでしょ? 今のうちに入っておかないと」
「風呂くらいあるさ」
「あなたはいいわよ。私は若い女なのよ」
「誰も覗かないように、俺が見張っててやるよ」
啓次郎が笑った。
朝食を終えて、朱音はひとりで温泉に向かった。湯船に肩までつかる。性器が少しひりひりする。昨夜も少しやりすぎた。
部屋に戻ると、啓次郎は既に着替えていた。
「もう、出発?」
「早めに出発するほうがいいと思ってね」
もたもたしていると、朱音も考えが変わってしまいそうな気がする。
「いいわ、いきましょう」
清算を済ませて外に出る。大きなこうもり傘に、啓次郎と二人で持った。
駅まで戻り、レンタカーを借りる。
「嫌な雨ね」
フロントガラスに細かい雨粒がびっしりとついていた。
「雨はもうすぐ上がるはずだ。でないと視界が利かなくて困る」
啓次郎は岬で視界が利かなくなる事を心配しているようだった。
車をゆっくりと走らせる。ここから呼子の岬まで三十分もかからない。車は岬のそばで捨てることになるのだろう。
外は相変わらず霧雨だ。街の景色がくすんでいる。
「下着、湿っちゃったわ」
「新しいのはあるのか」
「着古したものは持ってきてるわ。昨日履いていたのは捨てたけど。洗濯できないでしょ?」
「欲しかったのに」
「馬鹿」
朱音がサイドミラーをチラッとみた。
「気づいてたか?」
「えっ?」
啓次郎がバックミラーに目をやった。
「もしかして、後ろの車って……?」
サイドミラーにさっきから同じ赤い車が映っている。
啓次郎がアクセルを踏み込むと、サイドミラーの中で車が遠ざかった。
細い田舎道を飛ばした。入り組んだ道を走り、急に左折して海沿いの道に出た。地元の住人らしき老人が目の前に現れた。朱音が悲鳴を上げる、啓次郎がハンドルを切った。
スピードをあげた。赤い車が追いかけてくる。前に倉庫が見えた。車が突っ込んでいく。思わず目を閉じた。
急ブレーキ。彼がハンドルを右に切った。車はスピンして停まった。倉庫に赤い車が突っ込んでいる。
別の一台が倉庫の角を曲がってくるのが見えた。そのままむかっていった。窓から腕を突き出し、拳銃を構えている。
思わず息を止めた。眼は開いていた。正面から来た車が逸れた。銃声のような破裂音が聞こえた
突っ走った。さっきの車が追いかけてくる。その後ろを、倉庫に突っ込んだ赤い車が続いている。ハンドルを右に、それから左に切る。片側に玄界灘が広がっている。ガードレールの向こうは岸壁だ。落ちたら命はないだろう。
海沿いの細い道を走り抜ける。啓次郎が海と反対側にハンドルを切った。未舗装の道路に突っ込んだ。深い轍が路面に刻まれている。車体が跳ねる。
後ろから車が突っ込んできた。右にハンドルを切る。突っこんできた車と並行して走った。
正面には樹木が生い茂っていて、道が右に曲がっている。朱音の乗る車が右側を走っている。
啓次郎はまっすぐに走った。森が迫ってきた。
ブレーキが軋む。体が前のめりになった。シートベルトをしていなかったらフロントガラスに頭をぶつけていた。ハンドルを切るタイミングを、ひと呼吸遅らせたのだ。
追ってきた左の車が木々の中に突っ込んだ。その後ろをついてきていた赤い車が急ハンドルを切って左側の土手に突っ込み、そのままひっくり返った。
啓次郎がドアを開けた。
「何をする気? 早く逃げましょう」
しかし、啓次郎は朱音の言葉を無視するようにひっくり返っている赤い車に近寄っていった。
車の窓から、誰かが這い出してきた。見覚えのある男だった。朱音をアルファードで連れ去った、三代目尽誠会副会長、武野雅臣だ。
他の仲間達は車から這い出せないでいる
朱音も車から飛び出した。そして、息を呑んだ。啓次郎の右手に大きなナイフが握られていた。サバイバルナイフだ。
身体が震えてきた。啓次郎が何をしようとしているのかわかったからだ。
武野が顔を上げた。それと同時に啓次郎が突っ込んで行った。武野の顔が凍りついた。
啓次郎が武野の顎を蹴あげた。そして刃を上にむけ、腰だめにして身体ごと武野にぶつかっていった。
武野の悲鳴が聞こえた。啓次郎がそのまま武野の身体を押した。武野の背中を車に押しつけると、伸びあがるように思いきり腰を捩った。ナイフが武野の身体から抜けた。その反動で啓次郎はバランスを崩して膝を突いた。
血が飛んだ。武野が両手で下腹部を押さえている。両手が赤く濡れていた。
啓次郎が踏みこんだ。武野が眼を剥き、口を大きく開いた。叫び声をあげて背中を向けた。啓次郎が武野の脇腹にナイフをつきたてた。そして腰を回転させながら切りあげた。
血が噴きあがった。
武野が地面に倒れた。一瞬、血が噴水のように溢れ出したが、すぐに止まった。
車のそばに拳銃が落ちでいた。車内に置いていたものが衝撃で外に飛び出してきたものだ。啓次郎は拳銃を拾い上げると、車に戻ってきた。血で汚れた服を脱いで、上半身裸になった。新しいシャツを着てズボンも替えた。血で汚れたものを森の中に放り投げた。
ようやく這い出してきた尽誠会の若い男が、地面で絶命している武野を見て立ち尽くしていた。
着替えた啓次郎は、ごく普通の男に戻っていた。
「車に乗れ」
啓次郎の言葉に我に返り、朱音は急いで車のドアを開けた。
13.最後の夜
ホテルの部屋に戻ったのは、六時前だった。部屋には食事が既に用意されていた。
事は思い通りに運んでいる。順調すぎるくらいだ。
食事を終えた後、旅館の浴場にいった。だれもおらず、貸しきり状態だった。
潮で髪が少しべたついていた。体中がべとついているような気がした。ボディーソープを身体にまぶし、泡をたてる。手早く身体を洗った後、熟いシャワーを浴びた。
ホテルのロビーを覗くと、啓次郎がソファに座っていた。五十くらいの男が彼の前に座っている。黒いシャツを着て髪は短く刈り、薄くて鋭い眼をしていた。
ドキッとして足を止めた。啓次郎が気配に気づいて振り向き、手招きをした。
啓次郎の横に腰掛けた。潮焼けした赤い肌は、筋者のものではなかった。いかにも漁師といった感じだ。
「一緒に連れて行きたいってのは、その娘なのかい」
男が朱音を見た。
「はい。勝手をいってすみません」
「まあ、一人も二人も変わらんさ」
男がタバコを銜えた。朱音が慌てて灰皿を前に差し出したが、男は目もくれなかった。
「東京の警察が唐津に来ている。朝から、町中をうろうろしてやがる」
朱音は息を呑んだ。忘れていた。啓次郎を追っているのは尽誠会だけではなかったのだ。
「お前のことはまだ突き止めちゃいないようだが、他所者のチェックはしている」
「どうして警察にわかったんでしょうか?」
「さあな。もしかしたらお前を追っているやくざについてきたのかもな」
「しかし……」
「奴らは今、富山や石川や福井に網を張っているが、兵隊の一部をこっちにも回したんだろ。お前が韓国に渡るってことは連中だって察しはついている。玄界灘にも眼を光らせておこうって考えるのはある意味的を得ている。奴らだって馬鹿じゃない」
「はい」
「警察は嫌いだね」
「俺も好きじゃありません」
「若竹さんの倅を殺した奴を刺したんだってな。何が何でも逃がしてやってくれっていわれてんだ」
「よろしくお願いします」
男は灰皿の上で吸殻を指で押しつぶすと、すぐに新しいタバコを銜えた。
「煙草、どうかね?」
「いただきます」
啓次郎が男の差し出したタバコに手を伸ばす。
「手筈を説明する。朝の九時ごろに呼子の岬まで行くんだ。そのこたあ、若竹さんから聞いてるよな」
「はい」
「車では岬の上の道までしか行けない。石段を降りて下の岩場まで降りろ」
「ここからどれくらいかかりますか?」
「一時間ってとこだ。とにかく降りんだよ。一番下まで」
「そこで船が待ってるんですか?」
朱音が思わず身を乗り出した。
「ああ。小さな漁船で、キャビンの天井が赤く塗ってあるので、見りゃすぐわかるはずだ。そのボートで沖までいく。そこで別の船が拾ってくれることになっている。もっと大型で、対馬の沖までいけるやつだ」
「そこには船着場みたいなものがあるんですか?」
朱音の不安そうな声に、男が苦笑いした。
「心配すんな。むこうで見てる。お前たちが降りてきたら岸まで寄ってきてくれる。波がありゃ、場合によっちゃ、船まで泳ぐことになるかも知れねえが、まあ、たいした距離じゃない」
「対馬沖で、うまく会えますか?」
男が啓次郎を見て頷いた。
「玄人だぜ、こっちは。とにかく、呼子の岬で漁船に乗れたら心配はいらねえ。おまえさんたちが大変なのは、呼子まで無事にたどり着けるかってとこだな。港は警察が張ってるだろうし、おそらく尽誠会の連中も目を光らせている。道は険しいから足元に気をつけろ」
「はい」
男がメモを差し出した。おそらく船に乗る場所を記したものなのだろう。
「イカ釣り漁船にまぎれて沖にでりゃ、保安庁のレーダーも誤魔化せる。そのまま対馬の沖まで送ってやる」
「ありがとうございます」
朱音も頭を下げた。
「船は狭い。荷物は載せられないから身一つでくるんだ」
「荷物なんてありませんよ」
啓次郎が笑った。
男が帰ってから、啓次郎が浴場に行った。
風呂をあがって何も飲んでいなかったので、喉がからからだった。ロビーの自動販売機で缶ビールを買って部屋に戻った。
窓際に運んだ椅子に腰を降ろして、ビールを呷った。外は既に暗かった。海の上に、明かりがともり始めている。イカ漁がそろそろ始まるのだろう。
さっきの男は確かに漁師だったが、明らかに組織関係者だ。裏社会と連絡を取り合って、啓次郎のように海外に違法に逃れたいものに手を貸しているのだろう。
啓次郎がすぐに戻ってきた。髪がまだ濡れたままだった。
「あなたのもあるわよ」
「ありがたい」
啓次郎が缶ビールのプルトップを引いて口をつけた。開いた窓から心地よい風が流れ込んでくる。真っ暗な海の沖の水平線上で、イカ釣り漁船がまばゆく輝いている。このあたりはケンサキイカが有名で、呼子イカで知られている。
明日のこの時間は、玄界灘のかなり沖を航行しているのだろう。しばらくは日本に戻ってくることはない。両親や妹、諒子にも会えなくなる。
「残ってもいいんだぞ」
黙って海を見ていた朱音に、啓次郎が声をかけた。
「たいしたことじゃない。隣の国にいくだけよ」
啓次郎が朱音を抱き寄せ、唇を重ねてきた。浴衣の中に彼の逞しい手が忍び込んできた。思わず声が漏れる。朱音も浴衣に手を入れる。汗はひいていた。
もつれあったまま布団に移った。
「窓が開けっ放しだわ」
「気にするな」
啓次郎は浴衣を脱ぎボクサーショーツ姿になると、朱音の浴衣を剥ぎ取った。シーツはさらりと乾いていて、気持ちよかった。
無骨な啓次郎の手が、朱音の身体の末端から中心部へ向かってなで上げる。我慢していても声が漏れる。裏返され、背中を掌で探られる。首のうしろから肩にかけてマッサージをするように揉み解され、朱音はうめき声をあげた。
ショーツを脱がすと、啓次郎は舌を朱音の身体に這わせた。周辺から中心へ、末端から核へと舌が刺激を送る。
啓次郎が朱音の脚を割った。舌が足の付け根から性器を這い回り、やがて朱音の敏感な箇所を執拗に攻め始めた。ざらりと荒い舌の感触に、思わず身体を仰け反らせた。
啓次郎の口で何度も終わりそうになったが、そのたびに彼は動きをとめて恥骨や内腿への穏やかな刺激で朱音を高みから引きもどした。
「お願い……」
朱音が啓次郎の頭を手で掴んで股間に押し付けた。啓次郎は朱音の敏感な蕾に吸い付き、舌で転がし始めた。
朱音は堪え切れず大きな声をあげて、その日最初の絶頂を迎えた。
「きて……早く……」
自然に啓次郎のペニスを握っていた。
「ちょうだい」
啓次郎の大きな身体が多きかぶさってきた。朱音の性器がゆっくりとペニスを飲み込んでいった。
全部が収まり、啓次郎がゆっくりと動き始める。腰の動きにあわせ、親指の腹で朱音の蕾を周囲の肉に埋めこむように刺激する。
アカネは自分の声が高く、速くなっていくのを自覚した。堪えようとしても我慢できなかった。
「いいか?」
瞼を硬く閉じたまま頷いた。啓次郎が円を描く動きを極端に遅くし、親指に圧力を加えた。指の腹でむきだしの神経が平らにひしゃげるのがわかった。
朱音は手で口を塞いだ。そして、自分の手の中で声をあげながら果てた。
性器の中に綱の目のように張りめぐらされた神経と血管が、啓次郎のペニスで巧みに刺激され、興奮しきっていた。神経のひとつにペニスがあたる度に、快感が瞬時に全身を駆け巡る。
啓次郎の逞しい体に抱きつきながら、朱音は何度も果てた。うつぶせにされ、尻を持ち上げられ、後ろから啓次郎が入ってきた。両手でシーツを握り締め、枕に顔を押し付けて声を殺した。
再び仰向けに寝かされ、啓次郎が覆い被さってきた。何度エクスタシーを迎えたのか、わからない。
挿入してからどれくらい経っているのか。朱音は絶え間なく声をあげていた。窓が開きっぱなしであることなど、とっくに忘れていた。
啓次郎は長く射精をこらえていた。しかし、そろそろ限界が来ているのは彼の歪んだ顔を見ているとわかる。
「もう、いいよ……」
「もっとお前を味わいたい……」
「少し休んでから、またしてもいいよ」
啓次郎の身体を抱きしめ、キスをした。
「ああ、だめだ。もういくよ」
「中で出してもいいよ」
「しかし……」
「大丈夫だから、遠慮しないで」
啓次郎は最後に思いきり回転をあげた。ペニスが奥深くまで侵入してきて朱音の奥を突いた。
朱音は、もう声を漏らさないようにするのを諦めていた。
啓次郎が耳元で小さく呻いた。同時に朱音も絶頂に達した。
身体の奥深くで、啓次郎が弾ける気配を感じた。
12.玄界灘
三島で九時四十六分のひかりに乗った。
平日にもかかわらず、乗客は多かった。
「今のうち休んでおいたほうがいい」
啓次郎はそういうと、シートを倒して眼を閉じた。
三島駅を出たばかりのときは雲に隠れて見えなかった富士山が、いつの間にか姿を現していた。富士山を見るのはいつ以来だろう。
朱音も眼を閉じた。人の話声や列車の震動、時折横を通り過ぎる車内サービス。
神経が高ぶっていてなかなか眠れない。
静岡駅を発車してしばらくして、前の座席に二人組の男が座った。
男達は関西弁で喋り合いながら、時折後ろに視線を送ってくる。
まさか、追っ手なのか。朱音は何気ないそぶりで、男達の言葉や動きに注意を払った。
今、裏社会の人間に追われて逃げている。自分達を追っている者たちは、息を潜めて気配を消してそっと忍び寄ってきている。
啓次郎は隣で寝息を立てている。こんな逃げ場のない新幹線の車両の中で、よくも暢気に居眠りなど出来るものだ。
ふたりが尽誠会の手のものなら、逃げようもない。じたばたし立って、仕方ない。
朱音はそっと目を閉じた。
身体を揺すられて目を覚ました。
「よく寝ていたな」啓次郎がわらっている。「乗換えだ」
朱音はため息をついて席を立った。新幹線はいつの間にか新大阪に到着していた。駅の構内で弁当を買い、みずほに乗り換えた。
二人とも、黙って弁当を食べた。沈黙が続いたが気にならなかった。これまでの男とは、一緒にいて沈黙が続くとそわそわしたものだが、啓次郎相手だと、沈黙が気にならなかった。
博多で降りた。
旅館は予約していた。船に乗るのは明日。少し海が荒れ気味だが、明日には穏やかになるだろうと若竹は言っていた。
在来線で福吉というところまで行き、電車を降りた。旅館は駅のそばにあった。
古い旅館だった。三階建てで民宿というほどこじんまりしてはいないが、網元とか船主とかいう感じの小さな旅館だった。
部屋に入り窓から外を見上げる。玄界灘が見渡せる、いい部屋だった。
「ここからならレンタカーで唐津まですぐだ」
啓次郎が窓のそばの椅子に腰掛け、タバコに火をつけた。
「どうしてこのホテルにしたの?」
「連中は唐津に網を張るかもしれないからな。若竹さんはうまく誤魔化してくれるといっていたが、明日には俺達が富山にいないことはばれちまうだろう。連中の情報網は馬鹿に出来ないんだ。そうなると、次にあいつらが網を張るのは北九州か唐津なんだ」
啓次郎がタバコの煙を吐き出した。煙が窓の外に流れていく。
「ちょっと、外を歩かない?」
「俺達は逃亡中の身だぜ」
「あいつら、ここには来ないんでしょ? それに、日本も見納めになるんじゃない?」
「見納めとは大げさだな。ほとぼりが醒めるまでだ」
「夕食まではまだ間があるわ。いきましょう」
海岸に沿って伸びる道路を歩いた。コンビにもあればレンタカーもある。何もない場所だったが、田舎というほど寂れているわけでもない。近くにはゴルフ場もあった。
防潮堤に突き当たった。沖に伸びる防波堤が見えた。何艘もの漁船が横付けされている。比較的大きな漁港だった。
啓次郎は防潮堤にもたれて煙草をくわえた。
「一緒に行きたいわ」
「なんだって?」
「一緒に釜山に連れて行って」
風で髪が舞い上がった。指で髪を押さえる。
「あなたについていきたいの。釜山には頼れる人もいるんでしょ? 尽誠会の連中にも見つからないんでしょ?」
「あのなあ」
啓次郎が煙草を指で弾き飛ばした。
「駄目だって言わせないわ。最初は私を連れて行く気だったんでしょ」
朱音の眼から涙がこぼれ落ちた。どうして泣いてしまったのか、自分でもわからなかった。
「逃げる俺に手を振って見送る程度の仲だったんじゃないのかい?」
「そのつもりだったけど、わかんないの。急に一緒に行きたくなったの」
啓次郎が二本目の煙草をくわえた。また眼から涙がこぼれ落ちた。頭上から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「頼れる人といっても、俺は親類縁者から嫌われているんだ。向こうのダチだってどこまで頼りにできたものか。なんの当てもないのと同じなんだ」
「それでも、離れたくないの。こんな気持ちになったの、初めてよ」
「外国で暮らすのは大変だぜ。それに、無事に海を渡れるって決まってるわけじゃない」
「覚悟の上よ」
朱音がようやくポケットからハンカチをとり出した。
「親と妹はどうするんだい?」
「ほとぼりが醒めるまでって、あなたがさっきいったのよ」
啓次郎が笑った。
防波堤のほうまで行こうと、彼が言った。
風は強く、波も高かった。海際にそそり立っている旅館の屋根に大きな鳥が止まった。鳶のようだった。
歩きながら彼が携帯電話を取り出した。相手は若竹のようだった。女も連れて行くという言葉が聞こえてきた。そしていくつか言葉を交わした後、啓次郎が笑った。話がまとまったのだとわかった。
「若竹さん、なんていってた?」
「お前を連れていくっていったら、そうでなくっちゃってな」
「どういう意味? 私を連れて行くことに賛成してくれてるってこと?」
「さあな。俺は止められると思ったんだが。あの人が何を考えているか、わからないときがある。それに、俺達が富山に着いたって偽情報を裏で流したといっていた。連中が食いついたかどうかはまだわからないらしいが」
「とりあえずは時間稼ぎが出来るってわけね」
「船は予定通りだ。海も明日には穏やかになるだろって話だ」
「本当に大丈夫かしら」
荒れる海面を見ていて、朱音は不安になってきた。
「海の男の言葉を信じよう」
「明日の朝、どこかでお金を下ろさなくっちゃ。逃亡資金よ。こつこつ貯めておいてよかったわ」
「そりゃ、頼りになる」
近くをタクシーが通りかかった。啓次郎が手を挙げると、そばまできて停まった。