30(最終章) 別れ
目が覚めたらベッドの上だった。
上半身を起こすと、そばの椅子で女が座ったまま寝ていた。
生きてるのか……。
「痛ッ……」
脇腹が痛む。その声で女が目を覚ました。懐かしい顔がそこにあった。
「エリカか?」
「やば、寝てた?」
彼女が慌てて手鏡で自分の姿を確認する。
「ここは?」
「ソウルの病院よ。助かったのは奇跡だって先生が言ってたわ……」
腹の周りを包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「誰が俺を?」
「佐藤二尉があなたをここに運び込んだのよ」
あの時、俺を呼んでいたのは仲間達の声だったのか? あの街に戻ってきたのか。
「隊長は?」
「もう前線に戻っていったわ」
「そうか」
「あんたが倒れていた近くで中国兵がいっぱい死んでいたんだって。あんたがやったの?」
「気に入らない連中だったから、いつもみたいにぶっ殺してやったんだ」
「いつもみたいにね……」エリカが眉を潜めた。
「気に入らない奴は、総理大臣でもアメリカ大統領でもぶっ殺してやるぜ」
エリカがため息をついた。
「それで、中国兵に喧嘩売って、こうなったの? 相変わらず、馬鹿だねぇ。治安会の連中とは違うのよ」
「俺のことはよく知ってるだろ? それよりお前はどうしてここに?」
「お別れを言いにきたの」
「えっ?」
「辰雄、お別れよ」
エリカが辰雄を見ていた。
「今日、アメリカに行くの」
「そうか、そりゃ、よかった。なんとかって将校からたんまり引き出してやれよ。皮肉じゃないぜ。俺はお前の幸せを本気で願ってるんだ」
「わかってるわよ。たんまり引き出したらあの男と別れて夢をかなえるわ」
「どんな性悪女なんだよ」
「女は魔物よ。性悪ほど魅力的な女なのよ」
「お前なら出来るさ」
あなたによ。そういってエリカが手紙を差し出した。差出人は、新谷綾香と島中祥子だった。
「綾香は私にも手紙をくれたわ。あんたと会えたかって書いてあった。それから、祥子ちゃんもあんたを探しているって。朝鮮に来ること、言ってなかったの?」
「そんな関係じゃねえって、いつもいっていただろう」
「あんたねえ……女の子の気持ちをもう少しわかろうとしなさい」
「ああ」
「んじゃあ……わたしはもう行くから。輸送機があと三時間で仁川から飛び立つの」
「がんばれよ」
エリカが椅子から立ち上がった。身体を少し動かすと、脇腹に激痛が走った。腹に眼をやり、次に顔を上げたとき、もう彼女の姿はなかった。
もう、エリカに会うことはないだろう。
後戻りなどできないことは分っている。
この街を出て、日本に帰る。綾香と祥子にあったとき、俺はなんというだろうか。
(完)
29 贅沢な棺
タクシーを降りて、既に事切れたハユンを背負いながら辰雄は国安と並んでペンションに向った。
やがてペンションの前に辿りつくと、辰雄はハユンを近くの木に掛けて座らせた。
「これから、どうする気だ?」
「さあな。でももう、この街には正直いたくない。仲間達も戻ってきそうにないしな」
「いつ、出るつもりだ?」
「そのうちにな」
国安はそれを聞くと、一度だけ大きく溜息をつき沈黙した。天を仰ぎ、いつのまにか黒からセピア色に変っていた空を見つめている。辰雄も、倣って空を見上げていた。
「じゃあ、そのときはこの街の端っこまで送らせてくれよ。いつでもタクシーを出してやるるからさ」
「ああ」
辰雄はタクシーへ向って歩いていく国安を黙って見送った。
それからハユンを背負ってペンションの中に入り、リビングのソファーに寝かせた。
室内を見回す。ほんの少しの間離れていただけなのに、妙に懐かしかった。
しかし、もうこのペンションに用は無くなった、せめて彼女を葬る棺として使おうと思った。
倉庫においてあったポリ缶を部屋に運び、ガソリンをリビングの中に撒いた。
ここで火をつけたら気化したガソリンに引火して巻き添えを食ってしまう。辰雄はファンヒーターのタイマーをセットした。
眠るようにソファーに横たわるハユンを最後に一目見ると、リビングのドアを閉めた。
玄関を出たとき、いきなり頭を殴られた。
地面に転がされた。眼を開けた。暗闇の中で銃を構えた兵士。中国兵だ。全部で十人いる。
「お前、スパイか?」
ひとりの兵士に拳銃を向けられた。下手な日本語だった。
「俺は……ただの一般市民だ」
「嘘だ!」
銃口を眉間に突きつけてきた。
「この辺りに市民はもういないはずだ」
「逃げ遅れたんだ。車がないのでね」
兵士達がペンションを見ている。
「女がいるのか?」
「いない」
兵士に銃で殴られる。
「嘘だ。女物の靴が玄関においてある」
「以前いたが、今はいない」
少なくとも、嘘ではない。
「家の中を調べる」といって、兵士達がペンションに乗り込んでいった。通訳の兵士が辰雄の横で見張っている。辰雄の銃は軍服と一緒に納屋に隠している。納屋を探られて銃が見つかれば面倒なことになってしまう。
ペンションの中で爆発音がした。通訳の兵士が驚いて視線をはずした。辰雄は近くにあった丸太を手に取ると、後ろから兵士の首めがけて横に薙いだ。
首を殴られた兵士が地面に倒れた。辰雄は急いでその場を離れ、そばの林の中に逃げ込んだ。
炎が伝わり、ペンションが一気に燃え始めた。
贅沢な棺でよかったな、ハユン。
炎があっという間に燃え広がり、ペンションを包み込んだ。
「ひぃああああああぁぁっ!」
炎の中で悲鳴と断末魔が交錯する。燃える兵士達が数人、外に飛び出してきて逃げ惑い、倒れて地面を転げ回る。
実に愉快な光景だ。
炎に包まれた兵士達が、次々と焼け死んでいった。
辺りに嫌な臭いが漂い始める。中国兵が焼ける臭い。あまり長居したくないと思わせる臭いだ。
そばの木が、弾けた。
木々の向こう側に、さっきの通訳の兵士が銃を構えている。
兵士が辰雄を睨みながら近づいてきた。
ほう、タイマンか。いいだろう。
地面においていた丸太を手に取った。
銃声が響いた。銃弾がそばの木に着弾する。辰雄が木々の間を素早く動いた。
兵士が中を連射するが、木々に阻まれこちらを上手く狙えない。
銃声が止んだ。木陰から様子を窺う。ペンションの炎で、林の中が赤く照らされている。中国兵が、手に銃剣を持って林の中を彷徨っている。予備の弾倉をもっていなかったようだ。
炎は林の木に移り、だんだんと燃え広がっていた。中国兵は炎を気にしながら銃剣を構えていた。
林を侵す炎が気になるのか、ちらちらと後ろを気にしている。
(上等だ。やってやる)
俺を殺すことだけに専念したほうがいいぜ。
「うおおおおおおォォォォッ!」
いきなり目の前に躍り出てきた辰雄を見て、中国兵が眼を剥いた。銃剣を丸太で受ける。辰雄は丸太を回転させるようにして振り回した。
丸太が兵士の身体を直撃し、吹き飛んだ。とどめを刺そうと踏み込んだとき、脇腹に銃剣が突き刺さった。
兵士が青い顔で辰雄を睨んでいた。
「ははっ……」
やるじゃねえか。
辰雄は小さく笑うと、立ち上がった兵士目がけて踏み込んだ。脇腹の痛みは高揚感で打ち消されていた。
「ウオラァッ!」
辰雄は勢いを乗せて丸太を突き出した。丸太が兵士の顔面を粉砕した。兵士が逃げようと背を向けた。そのまま首の後ろを殴りつけた。
兵士が地面に倒れた。中国兵の全身を丸太で打ち据えた。頭はヘルメットを被っているので、主に腹を狙った。
辰雄は丸太を打ち下ろし続けた。やがて、兵士が動きを止めた。口を大きく開き、魂の抜けた眼を大きく見開いている。
「ハァ、ハァ……」
死体を前に、息が切れている。
血みどろの丸太を引きずりながら、ペンションのほうに戻る。木々に燃え移った炎はいつの間にか消えていた。
林を出た。炎の中でペンションは既に原形を止めていなかった。あたりには焼け焦げた中国兵の死体が転がっている。
途端、熱い何かが身体に流れ込んできた。視界が白くぼやける。 喉が渇いて呼吸がしづらくなった。
脇腹からの出血が、思っていたより酷くなっている。痛みが広がり、意識が飛びそうになった。
「ア、ァッ……ガァッ……!?」
まともに踏ん張ることもできず、辰雄はその場に崩れ落ちた。
徐々に痛みが強まってくる。
(このまま死ぬのか……)
もはやどうしようもない。
目を閉じた。どこかで誰かが、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
28 愛の逃避行
やみくもに走っていくうちに、やがて見覚えのある光景が目に入った。陽もそろそろ暮れてしまいそうなころに、辰雄達はようやく街に戻ることが出来た。
街を抜け、ペンションを目指す。とにかく安静に出来る場所が必要だった。アクセルを全開にして走り、街に残る瓦礫の山を蹴散らして走っていく。
「なんだ……?」
ジープが、見る見るうちに速度を落としていき、アクセルを踏んでいるにもかかわらず、止まってしまった。メーターを見てみると、既にガソリンは空になっていた。悔し紛れに、ハンドルに拳を思い切り叩きつける。
「くそっ!」
「もう、いいよ辰雄」
隣でぐったりとしているハユンが呻くように呟く。その目はうつろで、どこを見つめているのか、目で何を捉えているのかどうかさえ分からなかった。呼吸がまともに出来ないのか、喘ぐように喉元を小さく鳴らす。
「何、言ってんだよ。諦めんなよ」
かけてやれる言葉が見つからない。
辰雄もハユンも、激しい虚脱感に襲われ、それにからめとられて身動きが取れない。二人とも、もうとっくに精神的限界が来ていた。一旦力を抜いてしまうと、どんどん心が絶望へと引き込まれていくのを感じていたが、どうにもならなかった。
力なくハンドルに顔を押し付けるように俯いていると、前方が一瞬光ったような気がした。反射的に顔を上げて前を見て、それから目を凝らして奥のほうを見つめる。
タクシーが、街の中をのんびり巡行している姿が目に入った。
何も変ってはいなかった。
いつものように彼は、毎日この街の中を走っていたのだ。
辰雄は夢中でジープのクラクションを鳴らし、ライトを点滅させた。しばらくして、タクシーが向きを変えてこっちに向ってきた。
ジープが目の前で停まり、国安が降りてきた。ジープの中を覗き込んできた彼と目が合う。
「よう、久しぶりだな」
「何やってんだ、こんなところで?」
「愛の逃避行だよ」
「血だらけじゃないか。隣にいるのは……ハユンちゃんか? 大丈夫なのか?」
ハユンがゆっくりと彼の方に顔を向け、無理やり笑みを作る。
「とにかくすぐに横になって安静にしないと。ペンションに連れて行こう。タクシーに乗っていけ」
そう言ってから、国安がまずハユンを背負った。辰雄もふらつく脚で二人を追った。
国安はハユンを後部座席に座らせると、運転席に飛び乗った。辰雄も後部座席に座ると、ハユンを抱きしめた。
国安がタクシーを走らせる。いつの間にか陽は落ち、外は暗くなっていた。
座席に座りながら、辰雄とハユンは肩をくっつけて寄り添うようにしていた。ハユンの顔は、既に蒼白を通り越して真っ白になっている。辰雄は黙ってハユンの手を強く握る。生きて欲しいと、精一杯の思いを込めて。
ハユンは疲れ過ぎていた。この世界をこれ以上生きていくことに。いつの間にこんな狂った世界が出来上がってしまったのだろうか。浜田に撃たれた左肩の傷が、既にちっとも痛みを感じなくなっていることが、逆に腹ただしかった。
ハユンは寝ているのか、瞼を閉じたまま微かに寝息らしきものを立てていた。
タクシーを運転している国安に目をやる。彼は何も言わなかった。何も聞かなかった。あるいは何も考えていないだけなのかもしれない。でも、そんな彼の態度が、今の辰雄には不思議なほど居心地良かった。
「ん……」
突然、彼女の唇から声らしきものが漏れた。目は覚めたがまだ眠いのか。それとも、もう目を開ける力も無いのか。彼女は目を瞑ったまま何かを囁いていた。自分の耳を彼女の口元に近づけ、何を言っているのか聞き取ろうとする。
彼女がかすれた声で何かを呟いた後、震える手を辰雄の頬にゆっくりと添えた。
彼女の命の灯火が、既に消えかかっているのが、弱く震えた手を通して伝わってくる。辰雄は彼女の言葉に頷くことも首を横に振ることも出来ずにいる。返答することを辰雄の今の思考の中に存在させている余裕はなかった。うっすらと微笑みながら薄く目を開けるハユン。辰雄も、顔中の力を振り絞って微笑みかける。辰雄の肩に寄り添っていた彼女は、いつの間にか辰雄の膝の上で抱きとめられるような格好になり、辰雄は真上から彼女の顔をじっと見つめていた。
急に、弾けるようにハユンが目を見開き、次の瞬間彼女は辰雄の体に顔をうずめて激しく咳き込んだ。これまでのどんな発作よりも一段と激しい苦しみ様だった。辰雄の心臓は一段と激しく脈打ったが、それでも必死で彼女を抱きとめる。時々服に何かべっとりとしたものが張り付くような感触を覚えたが、それでも構わず辰雄はハユンを離さなかった。
大事なものが彼女の体からつぎつぎと零れていっている。この世との境界線を乗り越えるラストスパートを、誰も、本人さえ望んでないのに彼女は駆けていた。
何分ほどその状態が続いたのだろう。エンジンが焼き切れたかのように、ハユンは微動だにしなくなっていた。
「ハユン……」
彼女はこの世界ではない、ひどくおぼろげであるが静寂なる世界へと旅立っていった。辰雄を置いて。
途端にタクシーが大きくバランスを崩した。再び何事もなかったかのようにタクシーが走り出す。
じっと横たわる彼女の横顔を見ていると、やがてタクシーが停まった。
「着いたぞ」
なんとも間の抜けた声が車内に響き渡った。
27 脱出
逃げたほうがいいのだろう。
どう考えても、それ以外に結論は出なかった。浜田も吉野も銃を持っている。殺すと言うのも、多分本気だ。
しかし、ここにいればハユンは少しでも長く生きる事は出来る。病人相手なら奴らも温情をかけてくれるかもしれない。でもそれは、同時に役に立たないとして殺されてしまう方のリスクもある。
棚に並べられた缶詰を手で抱えられるだけ持ってから、部屋を出た。盗んだのではない。自分の物を取り返しただけだ。
部屋に戻り、急いでそれらの物と自分の荷物を吉野に支給されたバッグに詰め、医務室へと向った。
ノックをすることも忘れてドアを開ける。部屋の中には医者がいるが、毎度のごとく椅子に座りながら眠りこけていた。
「辰雄?」
病室に入ると、ハユンが笑顔で辰雄を見上げた。辰雄も笑い返しながらハユンの所に近づく。昨日より、少しは体調が良くなったのか、顔にほんのわずかに赤みがさしていた。
「ハユン、話がある」
「どうしたの?」
ハユンの口に手をかざし、言葉を遮る。今藪医者に起きられるのはまずい。注意深く医師に視線を送る。辰雄が入ってきたことなど全く気付いていないらしく、規則的に頭を前後に揺らし寝息を立て続けている。
「ハユン、驚かずに聞いてくれ」
「何?」辰雄に合わせるように、ハユンも神妙な面持ちで小声になる。
辰雄はさっき見たこと、吉野と浜田の交わした会話について話した。ハユンの目が驚きで大きく見開いた。病人のハユンにあまりショッキングなことは話したくなかったが、この際、仕方がない。
「で、お前はどうする? ここを出たら満足な治療は受けられなくなる」
「一緒に行く」
ハユンに迷いはなかった。
「どうせ長生きできないんだもん。辰雄と一緒にいたい」
「ハユン」
「わかるわ。自分の身体のことだもん」
ハユンの目が輝いている。覚悟はしていたのだろう。
「わかった、ここを出よう」
辰雄はハユンを背負うと、医務室を出て基地の出口へと向っていった。
辰雄の背中で、ハユンの呼吸が乱れ始める。
「大丈夫か?」
「うん」
出口は近い。とにかくこの基地から出て離れたら休めばいい。
「はぁ、はぁっ……」
出口間際というところになって、突然ハユンが苦しがり始めた。辰雄は慌ててハユンを背中から降ろした。
「ハユン、どうした?」
「おかしい……。何か、目が、良く見えない…」
顔色がみるみるうちに青くなっていく。やはり医務室で安静にさせていたほうが良かったんだろうか。
「医務室に戻って薬をもらってこよう」
「待って。大丈夫だからこのまま逃げて」
カツ……カツ……カツ……。
背後から、足音が聞こえた。いつか聞いたことのある、一定のリズム。
この足音の主は浜田か、それとも吉野か。
ハユンを背負って、後ろは振り返らずにそのまま走って逃げようとした。
「待て!」
聞き覚えのある声が、廊下に響いた。
「やはり、君達か……」
吉野が、そこに立っていた。、包帯を巻いた左足を引きずるようにしながらどんどん近づいてくる。
「俺達を殺す気か?」
辰雄の問いに、彼は静かに首を横に振った。辰雄は黙ってハユンを降ろし、壁にもたれかけさせて休ませる。どのみち、この状況で逃げることなんて出来やしない。
「ここを出るつもりか?」
「ああ。あんたと浜田のさっきの会話を聞いたからな」
吉野は一瞬驚いた表情を浮かべた後、申し訳なさそうに目を背けた。
「すまないと思っている。浜田曹長を止められなくて。全て、私の責任だ」
「それは、小池さんを殺したことも、という意味かい?」
静かに、吉野は頷いた。そして一層力のこもった目で辰雄を見つめた。
「言い訳をするつもりは無い。それに、私がここに来たのは、君達を逃がすためだ」
そう言って、ポケットに手を突っ込んで何かを取り出し、それを辰雄に手渡す。銀色の小さな鍵だった。
「ジープの鍵か?」
「ああ。街に戻るにしても、早い方がいい。浜田曹長に見つかったら事だしな」
「でも、それじゃあんたが」
「私はもう、決めたんだ。もうこれ以上あいつの手で余計な犠牲は出させない。例え私が犠牲になっても……」
吉野は言葉に力をこめた。それは、浜田を止めるということなのだろうか。つまり……。
「浜田を、殺す気なのか?」
力なく、吉野は首を振る。
「分からない。事と次第によってはそうなってしまうかもしれない。でもそれはもう、君たちに……っ!」
突然耳をつんざくような轟音が響く。と同時に、吉野が辰雄に向って倒れこんできた。
「きゃあぁ!」
ハユンが悲鳴を上げる。吉野は辰雄の上に倒れこんだまま、凄まじい勢いで血液が溢れてくる胸を押さえている。その背後に、あの男の姿があった。
「三度目だぜ、吉野……」
ゆっくりと辰雄達に近づいてくる浜田。吉野は、既に喋ることも出来ないのか徐々に呼吸が小刻みになっていき、必死で腰のあたりを手で探って何かを探していた。
「君達にも困ったもんだなぁ。まぁ、どうせもうじき死んでもらうつもりだったが」
吉野が、浜田に見えないよう辰雄の手に何かを握らせた。それが何か、辰雄にはわかった。その時、急に吉野は体の力を抜き、電池が切れたように微動だにしなくなった。
不思議なくらい、今の危機的状況を現実のものと感じられなかった。ハユンの言った、本当に恐い時はおかしくなるかひどく冷静になるっていうのは当たっているのかもしれない。辰雄は今、この上なく冷静になっていた。
「悪いな、俺はまだ飢え死にする気は無いんだ」
そう呟く浜田の目を見て愕然とする。彼の目は既に正気ではない、狂気に包まれた目だった。あまりに強い「生き残りたい」という思いが彼にこんな異常な行動を起こさせている。
そして理解した瞬間、「ハユンを守らなければ」という使命感が辰雄を再び突き動かした。こんな所で、死んでたまるか。
ぶらりと下げていた右手を浜田が振り上げたと同時に、劈くような銃声が響き、左肩に焼けるような激痛が走った。
「うっ……ぐ!」
たまらず地面に倒れこみ、右手で左肩を押さえる。貫通ではなくかすっただけのようだが、それでも右肩の服の生地がみるみるうちに赤く染まっていった。
「じゃあ……悪いけど」
そう言いながらゆっくり顔を近づけてきた浜田に、辰雄は倒れこんだままの体勢から右手を突き出し、引き金を弾いた。
轟音が辺りに響き、反響する。
「くっ……か、ぁ」
浜田は血が流れ出している喉を両手で押さえながら目を剥き、同時に数歩後ずさりながら凄まじい形相で辰雄を睨んでいた。
コプコプ……と喉から溢れた血が泡立つ。
「油断しすぎだ。余裕をかますからそうなる」
立ち上がり、吉野に手渡された銃を浜田に突きつけた。辰雄は力の限り浜田を睨みつける。
「それは、吉野の拳銃か……?」
「ああ」
「素人の癖に……いい腕をしている……」
「銃には慣れているんだ。ここに来て覚えたんじゃないんだぜ。日本にいるとき、ふざけた野郎を何人もぶっ殺しているんだ。こう見えて、あんたより多くの修羅場を潜り抜けてきてんだぜ、俺は」
浜田が目を大きく見開いた。
「楽にしてやるぜ」
浜田の眉間に銃口を向けて引き金を引いた。さっきと同じ轟音が廊下に響き、手に激しい痺れが襲ってきた。
辰雄が放った弾丸は浜田の眉間に撃ち込まれていた。
辰雄は銃を捨て、ハユンに駆け寄った。
「大丈夫か?」
小刻みに、震えながら頷くハユン。口をしきりに押さえている。どうやら血が出ているらしかった。彼女を背負って、再び出口を目指す。
出口のすぐ傍に駐車されているジープに乗り込み、鍵を差込みエンジンをかける。アクセルを踏むと、途端に車は加速して走り出した。隣に座っているハユンに視線を送る。座席に座りながら、青ざめた顔でぐったりとしていた。
ハユンが激しく咳き込んだ。かと思うと、車のフロントミラーの左端が一部真っ赤に染まった。ハユンの病状はどんどん悪化していているのは明らかだった。辰雄は彼女の肩を抱き寄せながら車を走らせ続け、あの街へ向った。
26 悪の所業
辰雄は山の上から焼け野原になっていく街をただ黙って見つめている。そこには何の感情も差し挟まれてはいない。ただ、呆然と見つめているだけだ。目を動かすと、山のふもとに血まみれの男の姿が見えた。
一瞬の後に起こる爆撃音。目も眩むようなまぶしさに包まれながら、辰雄は現実の世界へ引き戻されていった。
考える事が多過ぎると脳は意図的に思考の幅を狭めようとするのだろうか。そのときの事を思い出しても、辰雄は大してショックを感じていなかった。
「彼女はもしかしたらあと少しの命かもしれないって事を、君に伝えておきたかったんだ」
そんなことはわかっている。ハユンを見ていればそれくらいわかる。
医者なんだからハユンを治せよ。訳知り顔の医者にそういってやりたかった。しかし、何にでも寿命というものはある。
ハユンが間もなく死んでしまうのなら、それはハユンの寿命だ。医者のせいでも俺のせいでもない。
気分は最悪だった。それでも朝食を取らないといけない。
ドアを開けで外を覗いてみる。
「ん……?」
隣の小池もまだ食事を済ませていないようだった。部屋の時計に目をやる。十時三十分。いつも早起きの彼にしてはえらく目覚めるのが遅い。
部屋をノックしてみる。返事はない。さっきの夢のせいか、途端に悲愴な想像が頭を駆け巡り始めた。もどかしくなり思い切ってドアノブを捻ると、意外にも鍵は開けっ放しだった。開いたドアから中を覗いたが、小池はいなかった。
辰雄は手早く朝食を済ませ、ハユンのいる医務室に向った。だがそこにも、小池はいなかった。
病室に入ると、ハユンは辰雄を見た。
「調子はどうだ、ハユン」
「今朝は気分がいいわ」
そういって、いつものように、夢の話をした。ソウルで中華料理を食べた夢を見たといった。
「あのお店、美味しかった。また行きたいな」
「その店なら知ってるぜ。すげえ高い店だろ? 俺には無理だ。お前みたいに稼ぎがよくないから」
「ソウルに戻ったらご馳走してあげる」
「約束だぜ。絶対にソウルに戻ろう」
ハユンが微笑みながら頷いている。しかし、彼女が生きてソウルに戻れる可能性が低いだろう。
辰雄は早めに医務室を出て、小池を探しに基地の中をうろつきまわった。どうも彼のことが気になって仕方がなかった。
「あ、ちょっと」
廊下に、一人の女性が立っているのを発見した。二十代前半といったところだろうか、長い黒髪を手で弄びながら、あまり生気の感じられない無機質な顔をこっちに向けてくる。
たしか、優希菜という女だった。
「なに?」
どこか煩わしそうに尋ねてくる彼女の目。視線を合わせた瞬間、その目が辰雄を見ているようで見てないのがはっきりと見て取れた。
彼女の心の闇が見えたような気がした。亡くした親しい誰かを、あるいは辰雄の奥に見ているのかもしれない。
「小池さんを見かけなかったかい?」
「誰、それ」
「小池さんだよ、知ってるだろ?」
「知らない……」
「え?」
「知らないわよ、そんなことで話しかけないで、煩いわね!」
何が彼女の逆鱗に触れてしまったのか辰雄にはさっぱり分からなかったが、彼女は足早に去ってしまった。
この基地にはいろんな奴がいる。
辰雄は再び基地内の散策に出た。なおも歩き回っていると、前方から吉野と浜田が歩いてくる姿が目に入り、迷わず二人に駆け寄る。
「小池さんの姿をさっきから見ないんだが、どこにいるか知らないかい?」
二人は立ち止まる。それを聞いた浜田は急に神妙な顔つきになり、頭を掻き毟りながら視線を泳がせていたが、やがて口を開く。
「小池……? ああ、あいつか。実は昨日の夜、俺の部屋まで来て薬を貰いに来てたんだが、俺が薬を探している途中で急に持病の発作が起きてね。色々手は尽くしたんだが」
「だが?」そう相槌を打つ辰雄の背筋に、冷たいものが走る。
「結局、設備が不十分だったせいで亡くなっちまった。昨日の夜中ひっそりと埋葬してきたんだ」
吉野も知らなかったらしく、それを聞くと目を剥いて浜田の方を見た。いやそんなことはどうでもいい。小池が、死んだ。せっかく生き延びたのに。
「元々心臓を病んでいた人だから、いつこうなってもおかしくないな、とは思ってたんだが」
浜田が何か言い続けているのは耳には入っていたが、頭には入っていなかった。代わりに、昨日医者に言われた台詞がボンヤリと脳裏に蘇ってきた。
小池が死んだことについてぼんやり考えていると、知らないうちに辰雄は見覚えの無い通路に出ていた。いつも通っている部屋へと続く廊下に雰囲気は似ているが、何かが違っている。
その道をさらに進むと、やがて地下に続く部屋が見つかった。その部屋の中を覗いてみたがなんのことはない、辰雄の部屋より若干広い以外は別段代わったところも無い普通の部屋だった。置いてある軍帽などから、吉野か浜田、あるいは二人の部屋なのだろう。
部屋の奥に入ってみると、奥の棚に缶詰が並べられているのが目に入った。その缶詰に妙に見覚えがあるような気がした。
もっと近づいて確認した
「これは……!」
足音が二つ、階段の先から聞こえてきた。慌てて隠れる場所を探し、ベッドの下に潜り込んで息を潜めた。
やがて、吉野と浜田のものと思われる声が聞こえてきた。だが二人はどうやら口論をしているようだった。吉野が一方的に興奮しているようだ。
「そんなの、許されるはずが無いじゃないですか!」
「うるせぇな。こんなご時世になっても、まだいい子ちゃんぶるのかよ、お前は」
うざったそうに髪を掻き揚げながら浜田が部屋に入ってくる。続いて吉野も。
「俺達は、人命救助のために活動してきたんでしょう!」
「ああ」
「だったら、なんで……」
悲しそうに、唇を噛み締めながら呟く吉野。ただ事じゃない雰囲気がその場に立ち込める一方で、浜田は顔色一つ変えず、むしろ前に見せたあの不快な笑顔をちらつかせていた。
「人命救助だぜ。女は生かしておいてやるって言ってるんだ。立派な人命救助じゃねぇかよ」
「あんたは人に命を何だと思ってるんだ! ここにいる生き残りのうち三人の女性以外は殺すなんて……。絶対間違ってる。一体どうしてしまったんですか、浜田さん。最初の頃は生存者を助けようと俺に言ってたじゃないですか、あれは嘘だったって言うんですか!」
二人に聞こえてしまうんじゃないかと思うぐらい、心臓が激しく脈打った。今、吉野は何を言った? 女性以外は、殺す?
睨みつけるように浜田を見つめる吉野を尻目に、浜田はポケットから煙草を一本取り出し、それを口にくわえると火をつけ始める。やがて、大きく白煙を吐き出した後
「気が変ったんだよ。このままじゃ食料が足りなくなるんだからしょうがねぇだろうが。口に気ぃつけろ、吉野二等兵」
そう呟いてから、缶詰の置いてある棚へ近づいていく。
「それにしても、こいつは助かったぜ。あの藤島とかいう奴と韓国人の女から頂いた缶詰だ」
浜田が、棚においてある缶詰を見ながらにやけている。
「だが、この缶詰を足しても一ヶ月ももたない。そんな事は分かってんだろ?」
怒りより先に、ただ衝撃が辰雄の心をかきむしっていた。
「じゃあ、せめて彼らだけでもその食料を渡して逃がすのは……」
吉野が懇願するように浜田に問いかける。だが浜田は鼻にもかけない様子で言い放った。
「馬鹿かお前は。食料を渡しちまったら本末転倒だろうが。女は俺達の慰みもんになってもらう。あのハユンとかいう韓国人もいい体してるしな。だが、それ以外の奴らに利用価値は無い。男はなぁ、いてもくその役にもたたねぇ。食料をがつがつ食うだけだ。街に解き放って浮浪者になられるのも困る。中国兵に捕まってこの基地のことを喋られたらまずいからな。ま、今のうちに始末するのがベターってもんよ」
「小池さんも、そうやって殺したんですか……」
小池が、殺された? 心臓麻痺じゃなくて、殺されたのか。
「あの野郎、貴重な精神剤をドカドカ使ってやがったからな。昨日の夜も俺の部屋まで来て薬が欲しいとぬかしやがって。基地の外に呼び出して楽にしてやったよ」
「あんたは、悪魔だ……」
それを聞いた吉野は一瞬視線を落とした後、肩を震わせながらすさまじい形相で浜田を睨みつけている。浜田も、ヘラヘラした様子がいつの間にか無くなり、吉野と睨みあう。ふいに、手に持っていた煙草を地面に投げ捨てた。
「二度目だぜ。吉野二等兵」
言い終わるか言い終わらないかの瞬間、浜田がポケットに手を突っ込むような動作を見せ
「っぐぅ!」
銃声が部屋の中に轟く。次の瞬間吉野は足を抱えるようにして地面に倒れ込んだ。
浜田の右手には、ベルトに装着されたホルスターに収められていた銃が握られている。銃からは硝煙が上がっている。
吉野の倒れた周辺の地面がみるみる赤く染まっていく。足を撃たれたらしく、苦悶の表情を浮かべながら必死で吉野は痛みに耐えていた。
「お前はほんっとに甘ちゃんだもんな。銃を持ってるくせに撃てやしねぇ。ま、殺しやしねぇから俺の言うことを聞いとけって。な?」
吉野のすぐそばまで近づきながら腰を下ろし、諭すように浜田は語りかける。痛みでそれどころじゃない吉野を無視して、彼は言葉を続ける。
「言っておくけどよ、三度目は無いぞ。分かったな?」
さっきまでとは一転して冷酷な表情で睨みつける浜田を見ながら吉野は、悔しさをにじませるように目に涙を溜め、足を押さえながら、小さく頷いた。
満足したのか、無言で立ち上がって部屋を立ち去る浜田。彼が出て行った後しばらくして、左足を引きずるように立ち上がりながら、吉野も部屋を出て行った。
しばらくして、辰雄はベッドの下から這い出した。
怒るのは、とりあえず後回しだ。