幻影と嘘の擬態 4
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「火、貸してくれるかしら?」
そろそろ帰ろうか。そう思った時、突然背後から声をかけられた。
振り向くと、女子生徒が立っていた。
遼の知らない女子生徒だった。
いつからそこにいたのか。気配は感じなかった。
青白い肌。透明感のある瞳。肩にかかる程度の漆黒の髪。無機質なプラスチックのような独特の存在感。
妙に大人びた、しかし、どこか病的な、まるで幽霊のような少女だった。
遼は黙って自分のライターを差し出した。
「ありがとう」
細いがよく透るはっきりとした声だった。
彼女が慣れた手つきで自分のタバコに火を着けた。タバコを持つ細く綺麗な指に思わず目がいく。
この学校は生徒数の多いマンモス校で、一学年六クラスもある。それに、遼は学校の同級生にまるで関心がない。遼の知らない生徒がいても不思議ではない。
自分以外にこんな時間に屋上に来てタバコを吸う生徒が他にいるとは。しかも、女子生徒だ。
香草のような強い匂い。
自分の知らないタバコの匂いだ。
「変った匂いだな」
それまで黙ってタバコを吸っていた女生徒は、瞳をわずかに動かして遼を見た。その値踏みするような目に、イラっとした。
「海外のだから」
「どこのタバコなんだ?」
「フィリピンよ」
今時、タバコを吸う女子生徒は珍しくない。それは進学校であっても同じだが、こうまで校内で堂々と吹かす奴はいない。
「今日はどのクラブも部活が中止なのね」女子生徒が運動場を眺めながら、煙を吐いた。どうでもいいといった感じだ。
「テスト前だからな」
「学校の中には、もう誰もいないわね」
「まだ教師たちがいるさ。大声で悲鳴を上げれば飛んできてくれる。女子の悲鳴は空手部員やボクシング部員の拳より強力なアイテムだ。無実の男をたちまち極悪の犯罪者に仕立て上げることができる」
彼女がクスリと笑う。
「痴漢に間違われたことでもあるの?」
「いや。でも、痴漢に間違われた男を見たことはある。女の悲鳴で駅員が警官を連れて飛んできたが、警官は男の主張なんざ、まるで聞こうとしなかった。推定無罪って言葉、知ってるか? 法治国家の大原則が、この国では守られていない」
「本当の痴漢だったのかも」
「違うさ。そいつ、俺の目の前でずっとぼうっとしていたんだ」
「助けてやらなかったの? この人は犯人じゃないって証言してあげればよかったのに」
「トラブルなんかに巻き込まれる奴が悪いのさ。外でぼんやりしていたら、殺されたって文句は言えない。日本人は平和ボケしすぎているんだ。常に気を張り詰めていないと。油断している奴が悪いんだよ」
女子生徒がちらっと遼を見た。
「ここでこうやってあなたと二人でいるのは、私が油断しているからかしら」
「さあな」
「私にひどいことしたら、あなたはその倍返しを食らうことになるわよ」
「怖いな。俺は暴力が大嫌いなんだ。穏やかに行こうぜ」
女がまたクスリと笑った。
ふたりのタバコの煙がり風に流されていく。遼は自分の吸い殻をコンクリートの床に捨て、踵でもみ消した。タバコの小さな火の粉が風にかき消されていく。
彼女がこちらを見ていた。
「逞しいのね」
「はあ?」
「体、鍛えてるの? 部活をしているわけでもないのに」
「どうして部活をしていないと思うんだ?」
「放課後に部活なんてするタイプには見えないから」
彼女が遼の左腕にすっと手を伸ばした。
「触ってもいい?」
「かまわんよ」
「悲鳴、あげないでね。痴漢に間違われたくないから」
思わず、笑ってしまった。
彼女が腕をつかんでくる。昨夜の傷に痛みが走ったが、表情は変えなかった。
ふと、彼女から自分と同じ匂いがした。
「ありがとう」そう言って、女がまた運動場のほうを向いた。
「じゃあな」
昇降口まで戻って、一度振り向いた。彼女は夕空をバックに柵にもたれてタバコを吸っていた。その姿はまるで幻のように見えた。
まるで、本物の幽霊のようだ。
数年前、この屋上から飛び降り自殺した生徒がいた。薬物中毒で、ひどい鬱状態になっていたらしい。
何を馬鹿なことを。
遼は、自分の下らない妄想を吹き消すとタバコとライターを制服の内ポケットに忍ばせて階段を下った。