幻影と嘘の擬態 6
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風が窓を叩いている。手を伸ばして床に置いた腕時計を掴んだ。
午後八時。少し腹が減ってきた。
ぐったりと仰向けになっていた梨花が抱きついてきた。彼女の大きな乳房が、遼の二の腕でつぶれる。
「まだ痛む?」
ナイフで切られた傷を、テープの上から指で撫でる。
「たいしたことはない。テープ剥がすと傷が開いちまうがな」
「縫ったほうがいいんだけど」
半分開け放したカーテンから、ぼんやりとした街の明かりが入ってくる。過ごしやすいはずの十月半ばなのに、遼も梨花も全身に汗をかいていて、狭い部屋は若い二人の性の匂いで満ち溢れていた。
遼は梨花の横でうつぶせになり、銜えたタバコに火をつけた。暗い室内に、タバコの火が蛍のように光る。
「タバコやめなさい」
「そのうちな」
「そればっかり。ねえ……声、大きかった?」
「いや」
「だんだんよくなってる」
遼に抱かれるまで、梨花は処女だった。
「いらないものを捨てたいの。一緒に手伝って」
そう言って誘ってきたのは梨花のほうからだった。同年代の女の子と同様、早く捨ててしまいたかったというわけでもなさそうだったが、遼に恋愛感情があるとも思えなかった。抱き合っている今でも時々、梨花が何を考えているのかわからないときがある。
吐き出した煙で周囲が霞む。梨花が遼の身体に裸体を押し付けてきた。しっとりと汗ばんだ身体がほどよく火照っている。窓の外を走り去る車のエンジン音以外、何も聞こえてこない。静寂が二人の空間を、やさしく包み込んでいた。
「隣の部屋に聞こえてたかも。壁薄いもん、この部屋」
「隣は空き部屋だ」
「嘘。この前、音が聞こえていたわよ」
「逃げたのさ。借金取りから」
肺一杯にタバコの煙を吸い、一気に吐き出した。やくざの怒声とともに、隣の部屋から住人の気配が消えた。逃げたのか、それともやくざに連れ出されて借金のかたに内臓を抜かれたのか。
「伊達君が、最近あんたが狂暴になってきてるっていってたわ」
やはり気づいていたか。伊達とは中学からの付き合いだ。たしかに、暴力衝動が抑えられないときがある。わけもなく湧き上がってくる苛立ち。それをどう抑えたらいいのか、最近分からなくなってきている。
「暴力的な男は嫌いか?」
「嫌いじゃないわ。それに、女の子を抱くときは優しくなるもん」
「女は苦手だ」
「初めて聞いた」
「どう触れていいか、未だにわからない」
「女の体のことはよく知ってるじゃない」少し拗ねたような声。
「そういう意味じゃない。女をどう扱っていいかわからないから、抱くとき優しくなるんだよ」
遼は手を伸ばして梨花の尻を撫でた。張りのある大きな尻。触り心地もいい。
「私の首、絞めたくなるときがある?」
「いや、そんな趣味はないな」
「絞めたくなったらそのまま殺して」
「死にたいのか?」
彼女が遼に腕を絡めたまま、顔を枕に埋めた。
「お前が死にたがる理由がわからんな。家は裕福、勉強が出来て顔もスタイルもいい。お前は女子たちの憧れの的なんだぜ」
「男子じゃなく?」
「男子はおとなしい女が好きなんだ。お前は気が強すぎる。特に男に対しては強く当たるときがある」
「そうね。最近の男ってホントにはっきりしないからイラついちゃうの」
「怖いな」
「さっき河原で言ったこと、本当? 私たちのことを知ってる奴がいるって」
「確信はない。しかし、いてもおかしくはないだろ。クスリの取引で手に入れた金を奪われたんだ。連中は必死でこちらを探しているはずだからな」
「怖気づいたついたのね」
「そうだな」
「私は絶対やめないわ。クスリに関わると碌なことがないんだと、売人たちに思い知らせてやるの」
梨花は親友を売人にジャンキーにされ、それが原因で親友を失った。だから、売人を恨んでいる。
「今、密売人が卸問屋を疑って焼き入れて回っているの。手を引き始めている卸もいるわ。両者の騒ぎに気付いて警察も動きだしている。もう少しで、両方に大きなダメージを与えられるの」
「たった四人でどこまでできるというんだ」
「できるわよ。私はひとりでもやるわ」
遼がタバコの吸い差しを灰皿の上でつぶした。
「こんなことやめて、楽しい学校生活を送りたいと思わないか?」
「私は毎日楽しいわ。特に密売人が逮捕されたりつぶし合いをしてるってニュースを聞いたときは」
「屈折してるな」
「人並みに楽しい学校生活を送りたいとも思うわ。でも、そんな甘えは許せないとも思ってしまう。この気持ち、わかる?」
遼は沈黙した。よくわかる。遼も同じ気持ちだった。
梨花が布団から出て行った。箱からタバコを一本抜き取り口に銜えて火をつけた。
バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。
私はひとりでもやる。梨花が嘘を言っていないことはわかる。彼女が考えそうなことだ。