幻影と嘘の擬態 7
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暑い。熱気が四方から寄せてくるような感覚。汗をシャツが吸い不愉快に身体に貼り付く。
夏の日のように湿気が高くないのがせめてもの救いだが、本当に今は十月なのかと騒ぎたくなる。
こんな日は授業中に寝る気すらおきない。
遼はノートで顔を仰ぎながら、黒板の左側にある壁の亀裂を見つめた。
「この死の勝利は十五世紀、ペスト流行の際に……」
世界史の教師のしわがれた声が幻聴の様に聞える。
地球温暖化はもう抜き差しならないところまで来ているのではないかと本気で思ってしまう。こんなところで暢気に授業を受けている場合なのか。全世界の人々が一致団結して、来るべきカタストロフィに備えるべきではないのか。十五世紀の話なんかどうでもいいだろう。このままじゃ、世界は本当に滅びるかもしれないんだぞ。
しかし、そんなことをここで一人でぼやいても仕方ない。
ちょうど遼の席とは反対の廊下側の席に座っている梨花を見た。背筋をぴんと伸ばし、黒板を見つめている。気が強く聡明で真面目だというのが彼女の評判だ。昨夜遼に抱かれて悩ましい声を上げていたなど、誰も想像すらしていない。仕事がやりにくくなるので、梨花とのことは伊達や三島にも内緒にしている。
今日は風一つない。この時期、風が通る窓側の席はベストポジションだと思われているが、これではいくら窓側の席でも何の意味もなかった。
遼は開け放たれた窓の外に目を転じた。外界は白い陽光が容赦なく降り注いでいる。グラウンドでは体育の授業が行なわれていて、生徒達が大きな土煙を立てながら走っていた。
体育の授業よりかはましか。そう思いつつ遼はグラウンドの一画にある木陰に何げなく目をやった。
そこにいたのは、昨日の放課後、屋上で会ったあの女子生徒だった。制服のまま木の下に立っている。授業を見学しているらしい。
病弱そうな女だった。こんな炎天下での体育の授業は、彼女にとってはつらいだろう。
そのとき、彼女が上を見上げた。一瞬目が合ったような気がした。咄嗟に目を反らして視線を教室に戻した。
確かにあの女子生徒だ。間違いない。
まるで初恋の相手にでも巡り合ったような胸の高鳴りを覚え、ふっと息が漏れた。
だから何だというのだ。
だが、思えば初恋なんてものはなかったな。人を好きになるには、小さなころから人間の汚い部分を見過ぎていた。
終業を告げるチャイムが鳴り響いた。
昼休みの学校は、文化祭の準備で賑わっていた。
廊下は生徒達で混んでいた。遼は一階に行くため、薄暗い階段を下った。
「よう、遼」
突然かけられた声に振り返った。引き締まった体躯と乱れた髪、鋭い目。伊達がこちらを見ていた。
「鈴木は?」
「さあな。俺はあの女の御守りじゃねえよ」
「同じクラスだろ」
「教室じゃ、気安く口を利く仲じゃないって振りしてんだよ」
伊達が陽気に笑う。遼が降りてきた階段を、梨花が下りてきた。
校舎の隅にある備品倉庫に向かう。昼休み、ここを覗く生徒はいない。
三島が先に来て三人を待っていた。
取引の場所は駅の傍の廃ビルの地下。ロッカーの中の金を確認した卸問屋が売人グループにブツの隠し場所を連絡する。無事にブツを手に入れるまで売人グループが卸を見張り、売人グループが無事に物を手に入れると両社で取引が成立する。
遼たち四人が狙うのは卸が受け取った金だ。売人グループが、金が惜しくなって卸を襲い、渡した金を取り戻すふりを装う。売人グループの仕業だと疑った卸と売人グループとで小競り合いを起こさせ、両者の信頼関係を失わせるのが目的だ。逆に、売人を襲ってクスリを強奪することはしない。卸はクスリのストックに困っていないので、その行為は不自然だからだ。
街にはクスリが溢れているので、卸は儲け話には困らない。
「罠かもしれない。気を抜かないほうがいいな」
三島の説明が終わると、遼が三人を見回した。梨花の目が鋭くなる。
「弱気になるんじゃないわよ。なんなら、私もそっちに入って加勢してあげようか」
「お前がいても邪魔なだけだ」
梨花が遼の足を蹴る。
「あと、警察の情報も入っている。近々大規模な手入れがあるらしいぞ」
「いつ?」
「そこまではつかんでいないよ。やくざや不良や売人と違って、警察の情報は容易く手に入らない」
「とにかく、罠の可能性もある。念には念を入れて情報を仕入れてくれ」
「罠を張るにはそれなりに仲間同士の情報交換が必要になる。そんな情報のやり取りの形跡はないんだ」
三島の言葉に、梨花もそうよと言い添える。
「スマホを使っていないかもしれない。フェイス・トゥー・フェイスで情報を交わされていたら、俺たちにはわからないだろ」
「呆れた。スマホが乗っ取られていることがばれているとでもいうの? あんたがそこまで臆病だとは思わなかったわ」
「知ってるか? ライオンはヤギより臆病だって。だから野生で生き残れるんだよ」
「何言ってるの。馬鹿みたい」
「遼の言うとおりだ」伊達が口を挟んだ。「金を奪われた連中がいつまでも黙っているとは思えない。悠太、さらなる情報収集、頼んだぞ」
「へいへい」
梨花が不機嫌そうな顔で備品倉庫から出て行った。
「鈴木の奴、最近、感情的になり過ぎている」伊達が梨花の背中を見ながら呟いた。
「大丈夫だよ。頭に血が昇っていても、やることはきちんとやる女だ。優等生だからな、あいつは」
日本では中高生の間でも覚せい剤を中心に薬物汚染が広がっていた。中高生中心の幾つもの密売グループがシェア争いを繰り広げており、暴力沙汰も珍しくなかった。生徒同士の諍いが殺人事件にまで発展することも珍しくなかった。
そんな密売人を獲物にしている遼達のグループも、いつ何時、裏社会の住人に睨まれるか分かったものではない。
「何にせよ気をつけねえとな」
間もなく昼休みが終了するチャイムが鳴る。遼たち三人は備品倉庫を出た。廊下は生徒たちで溢れ、三人は人の流れを縫って廊下を進んだ。
ふと目を横にやると、見覚えのある横顔が目に入った。
あの女生徒だった。
彼女はちらりと遼の方に目をやったが、すぐに視線を戻した。
「あの女と何かあったのか?」
横にいた伊達が怪訝な目を向けている。彼女のさっきの視線を見逃さなかったのだ。
相変わらず鋭い男だ。