幻影と嘘の擬態 8
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ようやく授業が終わった。
ホームルームを終え、生徒たちが教室を出ていく。席を立ってカバンを肩にかけた。梨花が自分の席の前に立って、こちらを見ていた。
「なんだよ」
梨花が拗ねた顔を向けた。
「そんな顔すんなよ。クラスの奴に感づかれるぞ」
「そうね、それは困るわ」
「言いたいことがあるなら言えよ」
「おかしいよ、昨日から」
「いつもと一緒だよ」
教室を出ると、遼は屋上に上がっていった。
自分の部屋に一人いても仕方ない。かといって、人であふれる街中を歩く気にもならなければ、公園や河原でふらふらするのも気が進まない。学校の方がましだというだけだ。
白く薄い雲が空全体を覆い、それを透してぼんやりとした夕陽が差す。これを黄昏と言うのかもしれない。淡い水色の空と金色がかった薄い残光の照り返しを受けた雲。その下の街。そしていつものように明りが灯り出す。
遼はゆっくりとタバコを取り出し、火をつけた。白煙がゆっくりと風にのってたなびいていく。
どこか遠くへ行きたい。
いつからか、そう思うようになっていた。そして、その漠然とした思いを空想の中で具体的に練りあげる。幼稚な遊びだが、暇つぶしにはちょうどいい。
在り金叩いて、刑務所にいる母親の貯金もいくらか引きだし、空港に行く。その後、飛行機でロシアの東の端に行ってシベリア鉄道に乗る。一面の原野なんて最高だ。遮るものの無い地平線というものを、一度は見てみたかった。
タバコ一本を吸い終えて捨てる。不意に背後に人の気配がしたので振り返った。
あの女子生徒が立っていた。ゆっくりとした足取りで、あの匂いの強いタバコを吸っていた。
来る気がしていた。自分と同じ匂いのする女。向こうもそれを感じているかもしれない。
女子生徒の目が合った。無色の瞳を遼に向けている。
「よう」
タバコを一旦口から離した。
「いる?」
片手でタバコの箱から一本抜いて、遼に勧めた。昨日見たのと同じ、明るい茶色のタバコだった。
「いただくよ」
遼は代わりに自分のタバコを差し出した。貰ったタバコに火をつけて吸い込んだ。香料の利いたきつい味がして思わずむせてしまった。紫がかかった煙が空中に消えていく。
「随分きついな。それに悪くないけど何か……妙な味だ」
「まあ、慣れてない人にはきついかもしれないけど」
笑いもせず遼が渡したタバコを吸った。
「軽い。ハッカの匂いがする」
「メンソール系だからな」
「あんまり旨くないわね。私はこういうのは嫌い」
女生徒はそう言うと一口吸ったタバコを無造作に投げ捨てた。そのしぐさが妙に絵になっていた。
特に話し込んだりするわけでもなく、二言三言、言葉を交してはタバコを吸って、屋上から風景を見ているだけだった。彼女は自分の名前も言わなかったし、遼もあえて聞かなかった。何となく聞くのがはばかられた。
だが、遼は彼女のことを知っていた。
波多野美月。伊達が教えてくれた。
三年E組の生徒。変りものとして有名らしい。一年の時、学校を休学したので、歳は一つ上だ。極端に無口で、近づき難い雰囲気の持ち主という評判だ。だが、出席日数ぎりぎりしか授業に出ていないにもかかわらず成績はトップクラスだった。
「寒くなってきたわ」彼女が両手で身体を抱いた。「昼間はあんなに暑いのに、日が暮れてくると急に気温が下がるのね」
彼女がタバコを床に落とし、足で踏みつけた。
「戻るわ」そう言って遼の横を通り過ぎようとき、彼女が躓いて短い悲鳴を上げた。
遼はとっさに右手に持っていたタバコを捨て、彼女の体を抱きとめた。
「ありがとう、優しいのね」
「どういたしまして」
「それにしても、素晴らしい反射神経ね。タバコ、火をつけたばかりなのに、無駄にさせてしまったわ」
「気にするな。吸い過ぎは身体に良くないって、思っていたところなんだ」
彼女がくすくすと笑った。初めて彼女に見る、少女の面影。
ありがとうと言って、彼女が昇降口に戻っていった。
気のせいだ。
傷のある左腕をかばったことに、彼女が気付いているはずはない。