幻影と嘘の擬態 19(最終回)
19(最終回)
昨晩、波多野は待ち合わせ場所にこなかった。だが、遼はさほど落胆していなかった。彼女が来ないかもしれないと、うすうす感じていた。
遼は結局逃げることなどできなかった。波多野は、ひとりで逃げたのだろうか。
列車の窓に物憂げに姿を映している波多野の姿が遼の想像に浮かぶ。多分、どこへ逃げてもあいつはあの調子で、どこまでだって行ける。全部、軽々と突き放して生きていける強さがあるのだ。
奇妙なことに虚ろな中にも安堵感が残った。
俺なんかお呼びでないってとこだろう。だが、それでもいい。
梨花からひっきりなしに電話が入ったが無視した。そして波多野が来ないことを確信した明け方頃、彼女の電話に出た。
梨花はありとあらゆる罵詈雑言を、遼に浴びせた。そしてそのあと、大声を上げて泣き出したのだ。
教室では、梨花は遼と目を合わせようとしなかった。
昼休み。昼寝でもしようと図書室に向かっていると、伊達と三島が立っていた。
「一千万、ゲットしたぜ」伊達がニヤッとした。
「三人で分けろ」
「いやいや、そりゃ、筋が通らないよ。お前が一番の功労者なのによ」三島が笑った。
「俺はお前たちを裏切ろうとしたんだ」
「それは違うな」伊達が言った。「逃げ出そうとしただけだ。誰にだってそうしたいときはある」
放課後、金を分けると言って、二人が帰っていった。
そのまま遼は図書室に入ろうとした。いつもの午前の喧騒。いつもの一日が流れていく。 今日もまた暑くなりそうだった。
梨花が、廊下の向こうから歩いてくる。
「どうした。目が赤いぞ。昨日は徹夜か?」
梨花が遼を睨みつけた。
「ええ、おかげさまで」
「俺はこれから昼寝だ」そういって、彼女の脇を通り過ぎようとした。
「ちょっと待って」
「何だ」
うしろめたさのせいなのか、何となく今は梨花の顔は見たくない。
「昨日ね……手入れがあったの。大きな組織がまるまるやられたみたい。それでね。E組の波多野さんもパクられたの」
「そうか」
逃げたんじゃなかったのか、波多野は。しかし、もう、遼にはどうでもいいことだった。
「知らなかったわ。ただのメンバーじゃなく、彼女が仕切っていたなんて」
遼は自分の血液が下がっていくような感覚に襲われた。なぜ、こんなことになったのだろう。
「聞いてるの、遼」
梨花の声が、耳に届いていなかったことに気づいた。
「ああ」
「学校でも大騒ぎになっているのよ。私たちもほとぼりが冷めるまでおとなしくしましょう」
梨花らしくない言葉だったが、遼は黙って頷いた。
「彼女と駆け落ちしようと思ってたんでしょ? 浮気者」
「すみませんでした」
遼がペコっと頭を下げると、梨花が笑った。
「慰めてあげようか。仲間って、いいものよ」
「お前たちを巻き込みたくなかったんだ」
「それは反則。仲間はお互い助け合うものなのよ」
じゃあ、今夜。手を振りながら梨花が離れていく。
あと十分で昼休みが終わる。昼寝をしそびれたようだ。
遼はふらふらと校庭に出た。乾ききった校庭からは不愉快な土埃が立ち上っている。
遼は校庭の中央で立ち止まった。
馬鹿だ。あいつも。なんでなんだ。何故こうなった? なんで逃げなかったのか。
遼は秋とは思えない光が無慈悲に降り注ぐただっ広い誰もいない校庭に大の字になって寝転んだ。土埃が盛大に立ち上る。乾き切った土の臭いや感触。次第に口の中が、いがらっぽくなった。照りつける太陽の光が不必要な程眩い。遼の目から涙があふれてきた。それは重力の法則に従って地面に染みを作り始める。涙は馬鹿のようにだらだらと流れ出す。
もう波多野はいない。
地平線などとうの昔に消えていた。皆騙されているのだ。今ある地平線はコンクリートの壁に書かれた書き割りだ。舞台の背景の山も、銭湯の富士山よりもひどい代物だ。世界は壁だった。どこにもいけない。そう、全て行き止まりなんだ。最初から。
夏の空は青く、スモッグで汚されて白かった。強烈な陽の光が涙の中で炸ぜて視界を塞ぐ。一度だけ瞬きしてみる。
タバコが吸いたい。
遼はそう思った。
(完)