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幻影と嘘の擬態 17


17

 沈黙が訪れた。
「逮捕されるのか」
「近い内にね。私のことは警察にばれている。マークされているの。この前の一斉摘発、私の確保が目的だったの。仲間たちの視線も冷たくなってるし」
 波多野はそう言うとタバコを机に押し付けてもみ消した。灰皿は無いようだった。その時、遼は微かに重低音の洋楽が響いているのに気がついた。なぜ、大音量で聴くようなロックを絞ってかけているのか遼には分からなかった。だが、遼にはそんなことをいつまでも気にしている暇はなかった。
「まあ、潮時なのよ、きっと」
「そうだな。じゃあ、俺と一緒に逃げるか」
 波多野は瞳孔を大きく開いた。もう一本タバコを取り出し、侮蔑するような冷めた表情で言い放った。
「どういうつもりでそんなことをいってるの?」
「お前がパクられるとこなんて見たくないだけだ」
「一緒に逃げるって、言わなかった」
「言ったさ」
「あなたには信頼できる仲間がいるわ。仲間を捨てて、私と逃げるっていうの?」
「俺たちのことが多くの組織にばれるのもそう先の話じゃない。その中でも俺が最も顔が売れちまってる。仲間に迷惑はかけたくない。それに、すべてを捨てて逃げ出したいんだ。裏社会に関わるのが嫌になったんだな。俺も意外と柔な男なんだよ」
 波多野は遼に距離をとって観察する様な視線を投げかけた。
「オレと一緒に遠くに逃げないか」
 もう一度同じことを言った。突然、波多野が弾かれた様に笑い出した。
 波多野の笑う姿を初めて見た。
「馬鹿ね。あなた何考えてるの。よりにもよってそんなこと言うなんて。それに、あなたには何の関係もないじゃない」
 余程おかしかったのか波多野はせき込んでいた。
 本当に馬鹿だ。ただの馬鹿だ。
「別に関係ないわけじゃない」
「そういう問題じゃないでしょ」
 彼女は立ち上がると遼の傍に寄ってきた。そして唐突に身を乗り出し、左手を伸ばして遼の胸に掌を当てた。二人の距離があまりに近いため、波多野の髪が遼の頬に触れる感触が伝わってくる。彼女が吸っていたタバコの香りが微かに漂う。遼は自分の心臓の鼓動が一際大きくなるのを感じた。波多野の視線をまともに受け取れなくて、目を反らす。息が荒いのが自分でも分かる。
 沈黙の中、あの重低音が響く。妙に脅迫的で威圧的なドラムの音が僅かに聞こえる。
 その姿勢のまま数秒間が過ぎていく。
 突然、波多野が身を離す。そして神妙な顔つきで遼に言う。
「冗談よ。何か期待したの?」
 自分の動悸が収まらない。自分自身がひどく無様に見えてくる。
 波多野はもう一度椅子に深く腰掛け直すと脚を組む。無表情のまま二本目に火を点ける。古い扇風機が気の抜けた音をたてて回っていた。
「本当に逮捕されるのか」
「まあね。もう逃げられないと思うし」
 波多野が逮捕されるなんてまだ信じられなかった。でもそれは避けようもない現実だった。
 それは、遼にはどうすることもできない強固な壁だった。
 波多野のいる屋上は遼の前から姿を消し、もう二度とは戻らない風景になるだろう。
「ねえ、行きたいところはない?」
 波多野はおもむろにそう言うと壁に貼られた退色したポスターを指差す。
 ポスターの中の風景は砂漠だった。空と砂しかない世界。二つの境目がはっきりとした世界。照りつける激しい太陽と全てを凍てつかせる夜の気温。そうだ、ここなら……
 遼は逃げたかった。波多野が逃げねばならない状況にあるなら、遼も一緒に逃げたかった。波多野を言い訳にして。ドブ川の底に溜まった泥のように変らない日常を捨てて。 
「でも、それもいいかもしれないわね」
 今度は遼が慌てる番だった。
「いいのか? 本当に」
「いいんじゃない。このまま捕まるのを待っててもつまらないし」
「でも……何で」
「何かするのにいちいち理由が必要? 行き先は……そう砂漠にしましょう。いいでしょ」
 波多野のそっけない言い方に遼は戸惑いながら頷いた。波多野は乱雑な机から列車の時刻表を取り出す。
「今日の最終電車で東京まで出てそれから……」
 波多野は逃げる計画を買い物にでも行くように簡単に話した。いつもの淡々とした口調。冷たい横顔。
「いくら持っているの」
「二千万くらいだな」
「私は千五百万くらいあるわ。向こうは物価も安いし何とかなるはずよ」
 波多野は遼を無視して話を進めた。
「待ち合わせは今夜の午前零時にしましょう。いいわね」
 遼は黙って頷き波多野の眼を見つめた。
「俺は本気だぜ」
「私もよ……行きずりの人と道づれってのも悪くないわ」
 波多野のまなざしは変らなかった。そしてほんの一瞬、微笑んだような気がした。
 逃げられる。波多野と一緒に。退屈なこの街から。
 また、重低音が聞こえた。

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