魔女の棲む街 5
魔女の棲む街 5
教卓の前に立っている教師が、淡々と授業を進めている。流暢な英語が教師の口から流れ出てくるが、聞いている者はほとんどいない。
もうすぐ三十歳になろうとしている彼女は、痩せた体に淡いグレーのスーツを着ており、長い髪を頭頂で束ね、櫛でとめていた。顔は面長で、細く整えた眉毛の下に、切れ長だが鋭くない、覇気のない目を宿していた。
机の下で多くの生徒たちが、ノートにいたずら書きするような感覚で、授業中でも平気でライン交換をしている。この学校で勉強を真面目にしているやつなどほとんどいないが、春姫は英語の授業はそれほど嫌いじゃなかった。だから、英語の授業だけはサボったことがなかった。
目の前の席で、高田アキラが机の上に顔をつっぷして居眠りしていた。髪を黄色に染めた、成績がクラスで最下位の馬鹿だが、イケメンで身体も鍛えていて、喧嘩も強い。それに、噂によると、アレもでかいらしい。とにかく、あちこちで女を食いまくっているので、流れ出てくる噂も信憑性が高い。
そっと横の席の絵里を盗み見る。斜め前のアキラに潤んだ瞳を向けていた。
私から見ればただのガキじゃん。こんなやつのどこがいいのよ。
教師は高田アキラが眠っていることに前々から気づいているはずだが、注意することもなく、淡々と授業を進めていた。早く授業をすすめて、予定の箇所まで終わらせることが彼女の仕事なのだ。彼女自身、自分のやっていることがどれ程無駄なことなのか知っているはずだ。決められた範囲を教えて給料をもらう。ほとんどの教師はそう割り切っている。
春姫はため息をつくと、教科書に視線を落とした。
一番後ろの窓際の席という、教室一のベストポジションからクラスを眺める。女子生徒たちが机の下で、携帯電話に「仕事の予約メール」が届いていないか確かめている。女子高生専門の売春斡旋業に籍を置いている女子生徒も、この学校には多い。授業中でも時々、客の予約が入ったことを告げるメール音が教室に響くこともある。
六限目の現代文の授業中、春姫の携帯にメールが届いた。春姫は教師に見つからないよう机の下で携帯電話を見た。
新しく愛人となった男からだった。今夜渋谷で会いたいと書いてある。春姫は夜七時半に駅前で待っていますと絵文字入りのメールを手早く作って返信した。
春姫は中学生の頃から大学に行く必要などないと思っていた。実生活に必要のない知識と技術ばかりを身につけなければならない、苦しい受験勉強をするのが嫌だった。かといって、卒業したら何をするかも特に決めていない。この日本に暮らしているかぎり、何の努力をせずとも、いつまでも平和な生活が保証される。お金が足りなくなったら男に頼ればいい。せっかく美人に生まれたのだから、男を利用しない手はないのだ。
しかし、こんな生活をいつまで続けられるのだろうか。女子高生だからこそ、中年男たちが高額の報酬をくれるのだ。もし社会人になっても体を売る仕事を続けていれば、そのまま風俗穣になってしまうのではないか。そんな危惧も抱いていた。クラスの女子生徒の中には、十八歳を過ぎたら風俗で稼ぎたいなどと明るく言っている馬鹿もいたが、春姫にその気はなかった。
しかし、何かと金がいるが、真面目に働くこともめんどくさい。
春姫が頬杖をついて、うとうとしているうちに、黒板の上にあるスピーカーから終業のチャイムが鳴った。チャイムの音を聞いてすぐ、学級委員の、成績がいつも一番目の桜井恵子が「起立」と元気な声をあげた。号令にあわせて、生徒たちはばらばらに立ち上がった。教師は、自分が終わりの合図を出してもいないのに、学級委員の恵子が号令をかけたことを気にもせず。取り澄ました顔で教科書を閉じた。
居眠りしていた高田アキラは、桜井恵子の声を聞いて、みんながもう立ち上がっていることに気づいて大きな体を立ち上げた。
「礼」と恵子が言うと、みんなばらばらのタイミングで、ばらばらの角度の礼をした。教師は規律の乱れた礼に怒ることもなく、そもそもそんな乱調にも気づかず、ぺこりと首から上だけ軽く頭を下げた。
生徒たちが廊下に出たり、友達の席に集まったりした。教師はとり澄ました顔で教卓の上の教材をまとめると、逃げるように早足に教室を出て行った。
ざわついた教室の中で春姫は席にゆっくり腰をおろし、窓の外の景色を見つめた。三階の窓からはビルとアパートと民家の縦列しか見えなかったが、コンクリートの建物の間から、ところどころに植えられた木々の葉が見えた。
「春姫、今日暇?」と、友人の茜が声をかけてきた。背の低い中条茜は銀色のメッシュを入れた茶色の長髪に、日焼けした小顔をおさめており、人気女優をまねて訓練した笑顔を作っていた。
「ごめん、さっき仕事入った」と春姫は言った。
「あっそ。じゃあいいわ」
茜はクラスでも一番短いスカートをひらりとさせて、別の友達の席に可愛さを取り繕った小走りをしながら向かった。春姫にどんな用件があったのか、全く関心がなさそうに。茜はいつもこうして突然来て、自分の目的に合致しないとわかると、何も説明せず立ち去ってしまうのだった。
春姫は頬杖を突きながらつまらなそうな顔で外を眺めた。カラスは樹から近くの電線の上に飛び移り、獲物でも探すかのように頭を小刻みに動かした。
「よお、仕事って何してんだよ?」
高田アキラが春姫に尋ねた。春姫はどきりとして、アキラのにきび面を見た。横には絵里が立っている。瞳に落ち着きがない。
いやらしい顔で自分の体を見つめるアキラの顔を見て、嫌悪感が全身に走る。まさか、自分の仕事内容を知っているのではないだろうか。
「あんたには関係ない」
春姫は動揺が表情に現れないように立ち上がり、トイレに向かった。