野獣よ暁に吼えろ 5
野獣よ暁に吼えろ 5
夜店の準備を終え、宿に向かった。古い料理旅館で、名前は「梅の家」。あてがわれた部屋に入ると、明生がタバコを口に咥えた。一平太がさっとライターを差し出す。開け放した窓から祭り太鼓の音が入って来る。
「なんか、楽しみっすね」
「お前、祭り好きだろ」
「だから、俺を連れてきてくれたんっすか」
「まあな」
「ありがとうございます」
食事の用意が出来たと仲居が伝えに来た。一階の料亭に下りるとテーブルに二人分の料理が並んでいた。ビール瓶と酒の徳利もついていた。
藍染めのひとえの浴衣を着た女が店の奥から出て来た。長い髪を高々と結い上げた色の白い女だった。その姿を、一平太が吸い寄せられたように見入っていた。
「お久しぶり」
女は二人のテーブルまで来て、明生の隣に坐った。
「ここの女将の聡子さんだ」
浴衣の胸の合わせ目から覗く肌の白さに、一平太は目のやり場に困っていた。
「いい男っぷりね。向こうじゃ、ずいぶんと羽振りがいいんでしょ」
「まあ、ぼちぼちだよ」
「何のお知り合い?」聡子は明生に聞いた。
「弟分だ」明生は聡子に、一平太をそう紹介した。
「弟分って、なんか、やくざみたいね。職場の後輩とか? じゃなきゃ、本当のやくざか何か?」
「いえ、俺、明生さんに雇われているんです」
「そう。明生さんに会うのは一年に一度この祭りの時だけね」
それじゃ。そういって、聡子は席を立った。
「あの女、須田親分の娘なんだ」
「やくざの親分っすよね」
明生より二つ年上だから、歳はたしか二八のはずだ。
「明生さんって、この町の出なんっすか?」
「母親はこの町の生まれだ。母親の父、つまり俺の祖父は博徒の親分だった。南原組というんだがな。博徒になったのは祖父の父親の代のことだそうだ。祖父の父親は川筋で運送業をやっていて、今は工藤が継いでいる。一緒に川魚料理屋もやっていた」
「で、運送業は今も続いているんっすか。すごいっすね」
「この人が相当の遊び人だったらしい。川筋の漁師や船頭たちを集めて、自分の経営する料理屋で賭場を開いていた。段々と勢力を伸ばして行き、前からいた親分を追い出して、この町を縄張りとして一家を構えたんだ」
一平太が明生のグラスにビールを注いだ。
「祖父の代に組はさらに大きくなった。関東の広域暴力団三合会と兄弟分になったのも祖父だ」
「南原組っすか」
「だが、南原組はもう無い。祖父が死んで組は無くなった。子分が跡目を継ぐという話もあったらしいが、今の代貸しが面倒を見るという事で落ちついた」
「工藤さんはどうなんすか。どうして組を継がなかったんですか?」
「自分にはそんな度量などないといって断わったんだよ。人のいい田舎ヤクザだからな」
襖が開いて、また若い女が入ってきた。聡子によく似た女だ。女が明生を見て眉根を寄せた。明生が女を手招きした。
「帰ってきていたの?」女が明生に話しかけ、そして一平太を見た。
「聡子さんの妹の須田笙子さんだ。ガキの頃からの幼馴染だよ」
笙子は一平太に愛想笑いを返しただけで、姉のいる席に向かった。
「どうだ? 美人だし、聡子さんに負けないくらいいい身体をしているだろ。須田組はテキヤの一家で、本来はここいらが縄張りなんだが、今は代貸しがここの縄張りを預かっているんだ」
「代貸しっすか?」
「名前は佐々木重徳。実は、俺の祖父と聡子さんや笙子の父親の須田安之助とは、歳は離れているが兄弟分の間柄なんだ。祖父が兄、須田親分が弟の関係だ。祖父が死んだ時、三合会が祖父の組を引き継ぐという話が持ち上がった。新宿の洪門会も組の跡目相続の間隙を縫ってこの町に上陸しようとしたらしい」
「新宿にもここを狙っている組があるんっすね」
「まあな。何処をどう立ち回ったのかは分からないが、代貸しが組を引き継ぐという事で落ちついた。子分たちの面倒も見る事になった。三合会の弟分になっているが、洪門会ともうまく付き合っているようだ。佐々木重徳という代貸しは、なかなか政治力のある男らしい」
「どんな男なんっすか?」
「年は五十五、六といったところかな」
襖が開いて男が顔を出した。
「女将、代貸しがお見えになりました」
そう、と言って聡子は立ち上がった。一平太は聡子が店から出て行く姿を目で追っていた。薄い浴衣の生地が聡子の動きにつれて微妙に捩れる。その捩れが聡子の熟れた肉を想像させた。
「聡子さんは、今は代貸しの囲われ者なんだ」
「ほんとっすか?」
「この料理旅館は代貸しの持ち物だ。それを妾の聡子さんにやらせている。代貸しには聡子さん以外にも何人か女がいて、みんな水商売の店をやらせている。なかなかの事業家だよ」
うらやましいか? そういって、一平太に耳打ちしたら、「そりゃ、そうっすよ」と恥ずかしそうに頭を掻いた。
「この町の祭りは大きいんだ。大きな山車が何台も出る。山車の中には江戸時代に作られた文化財級のものも幾つかある。明日見てみろよ、結構すごいぞ」
「楽しみっすね」
「この辺じゃあ、ここの祭りが一番なんだ。近郷近在から人が集まる。東京や大阪からも観光客が来るんだよ」
明生は意味ありげに一平太を見た。
「ここの祭りを仕切るのは大きな利権だ。祖父も曽祖父も、祭りの時は大きな賭場を開いていたんだそうだ。今は代貸しの佐々木が開いている。賭場には警察署長や市長なんかも顔を出すという話だぜ。佐々木が何時だったか自慢げに話していたのを聞いた事がある」
「なかなかのやり手っすね、その佐々木って人は」
「実は、代貸しとは因縁があるんだよ」
一平太が驚いて明生を見た。
「俺の母親が、祖父が亡くなった後もこの町には一切来ようとしない。それは、代貸しに原因があるらしい。代貸しは、組を引き受ける時、母親に食指を伸ばしてきたようだ。母親の面倒を見ると言ったんだそうだ。俺の教育費を出してやるとも言ったらしい。だが、代貸しを嫌っていた母親は当然その申し出を断った。そしてこの町との縁も切れたんだ」
部屋では、あちこちで酒宴が催されている。
「母親にとっては、故郷の町に帰れないのは辛い事だったらしい。祖父が死んだら一度帰りたいと思っていたようだ。しかし、代貸しがいるからそれもかなわない」
「けじめつけたらどうです? 東京から仲間呼んで締め上げましょうよ」
「ここにはここのしきたりがあるんだ。他所もんが考えるほど、簡単なことじゃない」
部屋がだいぶやかましくなってきた。他の男たちも大分酒が回ってきたようだ。
一平太は少し興奮気味だった。口の動きも軽やかに、徳利を空けていく。明日からの祭りが楽しみで、というわけでもなさそうだ。
「どうかしたんだ? ずいぶん楽しそうじゃねえか」
「いえ、そんなこと、ないっす」
明生はそう言うが、聡子のことが気になっているのは顔を見れば明らかだった。
「この旅館の女将のことだろ」
一平太は目を上げて明生を見た。
「聡子さんは代貸しを嫌っているのさ」
「本当っすか?」
「聡子さんには亭主がいた。いや、今でもいる。現在服役中なんだ。その亭主の留守を狙って代貸しがものにしたんだ。聡子さんは抵抗したようなんだが、この町にいれば代貸しには逆らえない。力の強いものが縄張りと女を取る、そういう世界なんだからな」
「じゃあ、聡子さんは無理やり代貸しに囲われてんっすか」
「聡子さんも堅気とは言えない人だったからね。聡子さんの父親は須田の親分だ。娘たちも、いくら本人がヤクザ社会から遠ざかろうとしていても、周りはそう見ない。しかも、聡子さんはいろいろあった。どうしたって関係が出来てくる。妹の笙子の方は、町で組の人間とすれ違っても知らん振りは出来るが、聡子さんはなかなか難しい。それに、聡子さんは笙子と違ってヤクザ者と付き合う事を嫌がらなかった。どうなるかは分かるだろ」
一平太は黙って頷いた。
「中学生になった時はいっぱしの不良になっていた。もっとも、俺はその頃の聡子さんはまったく知らない。俺は母親と一緒に東京にいて、祖父がヤクザの親分だとはまったく知らされずに暮らしていたからね。今の話は、俺が高校生になって、毎年祭りにやって来るようになってから聞かされた話だ。その時はもう聡子さんは代貸しの囲い者だったよ」
「それじゃあ、もう何年にもなるんですね」
「そうだな」
「もう、慣れたでしょうね」
「女の気持が分からないヤツだな。嫌いな相手に何年囲われたって好きになるわけないじゃないか」
「そう言うもんっすか?」一平太は言った。
「お前、聡子さんが好きなんじゃないのか。聡子さん、いい身体してるからな」
「そ、そんなこと、ないっすよ」
「だが、用心しろ。ここは一般社会とは違うんだ。聡子さんの相手はヤクザ者でこの町の実力者だ。女は力で従わせるのがやり方だし、自分の女に誰かが手を出すのは絶対に許さない。この世界では面子が何よりも大事なんだ。面子が潰されれば、そのまま黙っている訳にはいかない。男が立たないんだ」
一平太がごくりと唾を飲んだ。
「仮に、お前と聡子さんの間に何かあるという噂でも立ってみろ、代貸しは面子を保つ為にお前を力で排除するだろう。それが何を意味するかは言わなくても分かるよな。ここはそう言う世界だと言う事を覚えておけよ」
明生は低い声でそう言った。
「聡子さんには旦那がいるんでしょ? その旦那が跡を継ぐんすかね」
「それはないな」明生がため息混じりに言った。
「じゃあ、笙子さんが継ぐんでしょうね」
「だから、須田組の連中はなんとか笙子をものにしようとしている。だが、露骨に口説くと親分の逆鱗に触れちまう。かといって、カタギと結婚でもされたら跡を継げなくなる。そこん所が親父さんの悩みだろうな」