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逃れの海峡 1



1.一夜限りの男

 地下一階にあるガールズバーには、いつもの常連客が三人いるだけだった。いずれも四十代のサラリーマン。最初はバイトの女の子五人で代わる代わる喋っていたが、途中から朱音と諒子が外れてグラスを磨き始めた。
「朱音って、おじさんはあまり好きじゃないんでしょ?」
 横でグラスを磨いていた諒子が耳元で囁く。朱音を客の前から引っ張ってきたのは諒子だった。
諒子のいうとおり、あの手の客は苦手だ。
「好き嫌いの問題じゃないの、仕事よ仕事。勝手に拉致しないでくれる? バック入んないじゃない」
 客がおごってくれたドリンク代の半分がキャストに入ることになっている。つまり、稼ぎたければうまく客に取り入っておごらせる必要があるのだ。
 突然、冷たい風が入ってきて、暖房の効いた店の空気をかき混ぜた。
 顔をあげると、背の高い男が視線を左右にめぐらし、店内を見回している。
「いらっしゃいませ」
 バーは暗く客の顔の表情は見えない。
「こちらへどうぞ」朱音が声をかけると、客がスツールに腰をかけた。
 カウンターを挟んで柔らかく微笑むと、客の男がぎこちなく微笑んだ。
 艶のある黒髪に浅黒い肌。薄い唇。服の上からもわかる筋肉質な身体とスラッとした長い手足。目はくっきりとした切れ長の二重で、スッと筋の通った鼻は、スラブ系を思わせる。
 見つめているだけで眩暈が起きそうになる。吸い寄せられるような魅力的な男だった。
 横にいる諒子が肘でついてきた。
「ご注文は何になさりますか?」
 焦りが顔に出ないように営業スマイルを浮かべる。
「バーボンあるかい? 強いのがいいな。ワイルドターキー、あるかい?」
「はい、ございます」
「じゃあ、ロックで」
 グラスに氷の球を浮かべ、バーボンを注ぐ。照明を浴びて、虹のような光りを放つ。
 カウンターにおかれたグラスを、男が口に含む。
「お客さん、この店は初めて?」
「ああ。六本木を歩くのも実は初めてなんだ」
「東京の方じゃないの」
「大阪からきたんだ」
 関西の客はここでは珍しい。
 引き締まった体型はいわゆる細マッチョというやつだ。目を細めて口角を少し上げた優しい笑顔も魅力的で、語彙力があってユーモアセンスも高い。
 気になったのは、自分のことはほとんど話さないことだ。何をしているのかと聞くと、自由業とだけ答えた。彼が自分について話したことは、大阪から来たというだけ。しかし、言葉に関西訛りはまったくなかった。
 店が混んできた。他の客の相手をしながら、時折盗み見たりした。彼はひとりで静かに飲んでいた。
 二十分ほどして、ようやく彼の前に戻ることが出来た。
「いい店だね。キャバレーのような猥雑な店じゃないし」
「ガールズバーって、こんなものよ」
「君は何時に出られるんだい?」
 男は優しく微笑むだけで、表情を変えなかった。
「出られるって?」
「仕事が終るのは何時なんだい?」
「もしかして、口説いてるの?」
「ああ」
 胸が高鳴ってくる。男がタバコをくわえたので、慌ててライターの火を差し出した。
 ここはスナックじゃないのに。
「今日は十時までの予定だけど」
 壁にかかっている時計を見た。もう十時は過ぎていた。薄暗い店に、数人の客が残っているだけだった。
「じゃ、出ようか」
「やっばり口説いてるんだわ」
「外で待ってるよ」
 男はタバコの吸殻を灰皿に押し付け、スツールから立ち上がった。
 強引な男。でも、胸の鼓動はまだ止まない。
 店長に上がりますといって、支度部屋に向かった。制服を着替え、ブラウスとジーンズのラフな格好で出勤したことを後悔した。
 朱音はカーディガンを羽織って階段を上がる。男の姿が見えない。
 後ろでクラクションが響いた。路肩にメルセデスが停まっている。オープンカー仕様の黒のSLだった。
 ウィンドウ越しに、男が左手をあげた。車内で微笑むと、ゆっくりと朱音に寄ってくる。車が朱音の横でとまった。モーターのうなる音。ウィンドウガラスがドアの中に消えていく。
「どうぞ」
 男が、また微笑んだ。襟元からのぞく肌が広かった。逞しい男の身体に、胸がまたキュッとした。
ドアを開き、助手席に滑りこんだ。不思議なくらい、身体にぴたりとフィットする。
「うわ、このシート、なんか変」
「セミバケットシートだよ。オプション品でね」
 固いシートだが、すわり心地がいいし、身体がぴったりホールドされてどこか安心感がある。
「飲酒運転ね」
「そう責めないでくれ」
「別に責めてないわ。私は警官じゃないから」
 男が軽快に笑う。
「食事はすんだのかい?」
「仕事に出る前、サンドウィッチを食べただけ」
「いい店がある。深夜までやっているレストランなんだが、先に食事にしよう」
 先に、ということは、その後もあるということだ。

 夜景が良く見える、高台にあるレストランだった。
 予約席の札がのったテーブルに案内された。柔らかい間接照明に照らされた店内は、停電時にろうそくに照らされる室内のように暗かった。窓から眠らない都心の街が見える。
 もう十時半に近かったが、店内のテーブルの半分は埋まっている。全部が二人組の、しかもカップルばかりだった。耳障りな雑音を発する子供もいない。妙に静かな店だった。
 対面にではなく、朱音の右側に男が座った。
 矢矧啓次郎。
 この店に来るまでに朱音が聞き出した男の名。本当の名前なのかどうかは知らないし、確認する気もない。今夜この男に抱かれることになったとしても、今夜限りの関係なのだ。
 矢矧が、ウェイターが持ってきたメニューを開いて見せる。
「好きなのをどうぞ。俺は海老でも食おうかな」
 イタリア語が並ぶメニュー。値段が書かれていない。かなり高い店のようだ。
「悪いわ、こんな高そうなお店」
「気にするなよ。君にご馳走するくらいの持ち合わせはあるよ。君、酒は強いのかい?」
「仕事柄普通にのめるけど、それほど強くもないわ」
「じゃあ、ワインにしておくか」
 朱音は前菜と肉料理のメニューから、ナスと冬瓜と海老の温野菜サラダ、仔牛のリブローストを選んだ。矢矧は朱音と同じ前菜と、オマール海老の黄金焼きを選んだ。
 朱音の隣の空いたテーブルの向こう側に、五十代の男とまだ二十代の女が食事をしていた。男の右手がときどきテーブルの下に消えて、妖しく動いた。
 夫婦にも見えなくはないが、そうじゃないだろう。
「ああいうの、俺はあこがれるけどね」
 矢矧も横のカップルを見ていた。
「意外と普通の男なのね」
「君はいいと思わないのかい? 気心の知れたカップルが、人の目を盗んで悪戯をしあうんだ」
「お金で買われた女の子かもしれないわ」
「そうか……それだとつまらないな」
 噴き出しそうになった。
「見知らぬ女の人とのほうが興奮するんじゃないの?」
「まあ、そうかもしれないけど、憧れにはならないな。俺は公衆の面前であんなふうに戯れても怒られない関係がうらやましいといってるんだよ」
「よくわからないわ」
「気にするな。俺の説明が下手なんだ」
 朱音は、また隣のカップルを見た。男が女の太腿を撫でている。女は素知らぬ顔で、フォークに刺した肉を口に運んでいる。
「ああいうのが好きなのね」
「ううん……なんとなく、誤解されているような気がするな」
 ワインが運ばれてきた。
「とりあえず乾杯しよう」
「何に?」
「決まり言葉通りだよ。二人の出会いに」
 グラスを合わせ、ワインを口にいれた。少し渋いが、美味しいワインだった。
「江島さんと呼んだほうがいいかな」
「みんな朱音って呼んでるから、朱音でいいわ。あなたのことはそうねえ……」
「俺も啓次郎と呼ばれている。さん付けじゃなく呼び捨てでね」
「じゃあ、啓次郎って、堅気の人?」
 彼が軽い驚きの目で見つめ返してきた。
「俺がやくざに見えるのかい?」
「そういうわけじゃないけど、なんとなく、普通の人じゃない気がする。つまり、普通に会社に勤めたり、お客さんに愛想を振りまいて商売したりする人じゃなくって、特殊な仕事をしてるって気がする」
「たとえば?」
「そうねえ。警察官、とか」
 啓次郎が軽く笑った。
「じゃあ、飲酒運転は重罪だ。即、懲戒免職になってしまう」
「あら、警官が聖人だなんて思っていないわ。むしろ、一般人よりたちが悪い人種じゃない」
「そりゃ、そうだな」
 料理の皿がテーブルに運ばれてきた。ウェイターの気配に隣の女が姿勢を正し、男が慌てて手を引っ込めた。

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