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逃れの海峡 4


4.裏社会の男

 空のグラスの中で、氷の球が光っている。
「しっかりしろ、ア、カ、ネ」
 尻を叩かれ我に返る。諒子が睨みつけていた。
「早くグラス洗え。溜まってきてるじゃん」
「わかってるわよ」
 グラスの中の氷をシンクに転がし、グラスを洗う。
「あんたがそんなに未練たらたらになるなんてね」
「なってない」
「昨日からずっと上の空じゃん」
「うるさい。ちゃんと働いてるわよ」
「そんなにいい男だったの?」
「あんたも横で見てたでしょ?」
「まあ、いい男だったけど。それに、あの手の男はあっちのほうも立派なのを持ってるようだし。で、よかった?」
「内緒」
「でも、堅気じゃないよ、あれ」
 手を止めて諒子を見た。
「見りゃ、わかるわよ。あんたの倍以上、男知ってんだから」
 二人組の客が帰っていく。相手をしていた女の子が、外まで見送りに行った。店にいる客は二人だけになった。
「やくざと付き合ったこと、ある?」
「やくざはいなかったわ。半グレならいたけど。でも、この前の男は相当やばいわよ」
「どう見てもやくざには見えなかったわ」
「あの鍛え方はやばいわよ。地下格闘技とかやってたんでしょ? あんなところ、やくざと不良の巣窟よ。一夜限りの関係でよかったと思いなさい。ああいう男が、女を不幸にするんだから」
 諒子が慰めてくれていることはよくわかっているが、彼女の言葉を聞いているといらいらしてきた。
 店のドアが開いた。思わず顔を上げた。四十過ぎの小太りの男だった。
 諒子にまた尻を叩かれた。
 十時を回った頃には、店から客がいなくなった。朱音はさっさと着替えて店を出た。
 むくんだ足で階段をのぼり、地上に出た。
 駅に向かう人たちの流れに乗って、足を引きずるようにして歩く。いつもどおりの仕事だったのに、足が重くてだるい。空気が膨大な量の水分を溜め込んでいて、重くて不快だった。空は厚い雲で覆われていて、低い雲に街の灯が反射している。
 電車で帰る気分になれなかった。雨に降られてはかなわない。タクシーを捕まえようと大通りに出た。路上には客を待つタクシーが並んでいる。この時間、空車はいくらでもいる。
 タクシー乗り場に向かっているとき、短いクラクションに背中を突かれた。振り向くと、十メートルほど離れた場所に停まっていた黒のアルファードがヘッドライトを消したまま、ゆっくりと擦り寄ってきた。
 朱音の横でとまったアルファードの後部ドアが開いた。鋭い眼をした男がこちらを見ている。
「乗りな」
 薄く冷たい眼に思わず足が竦んだ。素早く踵を返したが、既に男達に囲まれていた。店からつけてきていたのだ。
「大声、出すわよ」
「気の強い姉ちゃんだな。しかし、いくら騒いだって、ここにいる誰もが俺達と関わりたくないって思ってるんだぜ」
「私、もう帰るんだから」
「タクシーを探していたんだろ? 北綾瀬まで、送ってやるぜ」
 顔から音をたてて血の気が引いていくのを感じる。この男は朱音の部屋を知っている。
「びびるんじゃねえよ。何もしやしねえから、顔貸してくんなよ」
 二人の男が、朱音を挟みこんだ。周囲を見回す。逃げるのは難しそうだ。それに逃げたって、部屋を知られている以上、何をされるかわからない。
 二人に押し込まれるように、アルファードの後部座席に乗った。朱音の左横に若い男が座った。車が路肩を離れ、三車線の道路の中央を巡航し始めた。
 突然、右の男が朱音の上着のポケットを探った。
「何するのよ!」
 男がスマートフォンを取り出した。隠し撮りしていたのがばれている。男がスマートフォンのスイッチを切った。
「江島朱音。フェリス出てんのになんでガールズバーなんかで働いてんだ?」
 喉が粘ついた。震えそうになる脚に力をこめて堪えた。この男はこちらのことを調べ尽くしている。
「フェリスの出身者が全員お嬢様だなんて思わないで」
「そのようだな。俺ゃ、お嬢様よりあんたみたいな女のほうがタイプだぜ」
「私はごめんよ」
 男が笑った。
「でも、妹はなかなか可愛いじゃないか。娘ふたりをフェリスにやるなんざ、さすが医者だな」
 その気になればなんだって嗅ぎ付けてやるという、連中の脅しだ。
「私の家族に手を出したら承知しないから」
「矢矧啓次郎、どこに行ったんだ?」
 朱音が男を睨んだ。男がいやらしく口角を上げた。
「奴といいことしたんだろ? 部屋を出るとき、どこに行くか言ってなかったかい?」
「あんたたちは?」
「訊いてんのは、こっちだぜ」
「知らないわよ。やることやったら、さっさと部屋から出て行ったわ」
 車がスピードを上げた。男の横の窓の外に、暗闇に広がる都心の光が広がっている。高速道路を走っているようだ。
「あんた、奴に惚れてんのかい?」
「馬鹿いわないで」
「男に声をかけられたら、いつでもほいほいついていくのかい?」
 朱音がまた男を睨んだ。相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。
「私だって、たまにはやりたいときくらいあるわよ。あの日はたまたまそんな気分で、偶然彼が声をかけてきただけ」
「今夜は俺が付き合ってやるぜ」
「ごめんだわ」
 いきなり髪を強くつかまれ引き寄せられた。車内に朱音の悲鳴が響く。
「もしもこの先奴が戻ってきても、匿おうなんてするんじゃねえぞ。奴が現れたら俺達に知らせるんだ。もし隠したりしたら、さんざん輪姦した後に、証拠が残らないよう生きたまま東京湾の沖に沈めてやる。世に溢れてる行方不明者のひとりになるんだ。言っておくが、俺達が本気で死体を隠したら絶対にみつからないんだぜ」
 男が手を離した。全身ががたがた震えてきた。堪えきれなかった。
 男が上着の内ポケットから名刺を取り出して、朱音の胸ポケットに押し込んだ。
 車が停まった。ドアを開けて、左側の若い男が車の外に出た。ドアの向こうの見慣れた風景が目に入った。マンションの前だった。
「着いたぜ」
「彼……何したの?」
「あんたには関係ないことさ」
「気になるじゃない。遊びとはいえ、抱かれた男なんだから」
「降りる気はあんのかい?」
「あなた達と何か揉めたの?」
「降りていいって言ってんだぜ。それとも、俺達と楽しむ気になったのかい?」
 朱音は車を降りた。黒のアルファードがゆっくりと離れていく。やがて、赤いテールランプが闇の中に消えた。
 身体の震えはいつの間にか止まっていた。


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