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逃れの海峡 5



5.電話

 午前十時。
 窓を開けて外を見る。とっくに目覚めている街は活気に溢れていた。前の道路を、手をつないだ大学生らしきカップルが歩いていく。朝ゆっくり起きて一緒に登校か。
 窓から周囲を見回す。怪しい男も車もいない。
 実家に電話をかけると、母が出た。
「おや、珍しい」
 そういえば、実家に電話をするなど久しぶりだ。ちょっとした用事は妹経由でSNSで伝えている。
「美雪は?」
「大学に行ったわよ」
 妹は自宅からフェリスに通っている。父親が一人暮らしを許さないのだ。朱音には何を言っても無駄だと思っていたのか、一人暮らしをしたいといったときは何も言わなかった。
「何か変わったことは?」
「何もないわ」
「怪しい人とか来なかった? 電話は?」
「何それ? 何かあったの?」
 下手に母を心配させると面倒なことになる。
「振り込め詐欺とか大丈夫かなって思って」
「心配ならたまには帰ってきたら?」
「仕事が暇になったらね」
「いつもそんなこと言って、全然家に顔出さないじゃない」
 どうやら、何事もなさそうだ。家族の安全を確認したらもう用はなかったが、結局、三十分以上も話し込んでしまった。
 最後に、今度の休みに帰ってくるようにといって、母が電話を切った。
 妹の美雪とは週に一回は会っているが、思えば、両親とはもう三か月は会っていない。
 姉の眼から見ても、美雪は可愛い妹だ。色白の美人で清楚で上品で、姉のようながさつさもない。男と付き合ったこともなく、まだ処女だ。このまま悪い虫がつかないように大学を卒業させてそこそこの企業に勤めさせ、医師免許を持つ婿をもらう。美雪には江島医院の跡継ぎを捕まえるという大役をこなしてもらわなくてはならないのだ。
「さてと」
 窓を閉めてベッドに寝転ぶ。昨夜遅くにスマートフォンで見つけたニュースにもう一度目を通す。
 啓次郎がこの部屋を出て行った次の日の夕方、新宿歌舞伎町で暴力団幹部が刺殺された。犯人は百八十センチ以上の大柄な男で現在も逃走中とある。
 普段は何の関心もなくスルーしている類のニュースだが、昨夜はすぐに眼に留まった。
 そして昨日、港区の倉庫で若い男が撲殺された。
 名前は安西博信。暴力団の準構成員。暴力団同士の抗争とみて警察は調べているらしい。
 前日の暴力団幹部が殺された事件との関連について検索したが、どのニュースにも出てこなかった。
 安西。
 あの夜、啓次郎のスマートフォンの液晶画面に出ていた名前だ。
 たまたま同じ苗字の人から電話があっただけ、彼はあの事件とは無関係よ、などと思うほど、おめでたい女ではない。
 安西博信を殺したのは暴力団員であり、理由は前日の歌舞伎町での幹部殺害事件に関係していたから。
 そして、暴力団幹部を殺した大柄な男が、矢矧啓次郎なのだ。
 幹部を殺された部下の暴力団員が啓次郎を探していた。昨夜、朱音を車に押し込んだ連中だ。
 テーブルに置いてある名刺を手に取った。太い毛筆体で書かれた文字。
 三代目尽誠会副会長、武野雅臣。
 尽誠会をスマートフォンで検索したら、社会福祉法人やら医療法人やら怪しそうな団体の名前がくっついて出てきた。
 しかし、あの男は社会福祉法人の副会長でも医療法人の副院長でもない。がちのやくざだ。
「嫌んなるわね」
 ベッドの上でひとりごちていた。

 外をうろつくのは危険と判断し、部屋で過ごした。しかし、仕事をサボるわけには行かない。
 午後五時、いつもどおり部屋を出た。北綾瀬から東京メトロ千代田線で日比谷に出て日比谷線で六本木へ。途中、怪しい人影は目にしなかった。
 女の子が二人、開店準備していた。店を掃除しグラスを磨いているうちに開店時間となり、ぽつぽつ客が入りだした。
 男がひとり、入ってきた。見るからにその筋とわかる男だった。そんな人種に慣れた女の子が愛想笑いを浮かべ、注文を聞きに行く。
 隅のカウンターに座りひとりで飲み始めた。時折視線をこちらに寄せる。明らかに朱音を見張っている。
 馬鹿じゃないの。私を見張ってどうすんのよ。
 睨み返してやったが、男の表情は変わらなかった。
 女の子たちが不安そうな顔をする。こんな日に限って諒子は休みだった。
 本当に、いざというときに役に立たない子だ。
 店は開いたばかりだ。金曜日なので客の入りもいい。バイトの女の子達が次々やってきて、キャストが六人になった。少し心強い。
 男は相変わらず、カウンターの隅で一人で飲んでいる。
 好きなだけ粘ればいい。どうせ彼はやってこない。飲んだ分お金を払ってくれるなら、いくら粘ってくれてもかまわない。
 出来るだけカウンターの隅の男を避け、若い客を相手に馬鹿話をしていた。
 後ろから肩を叩かれた。アルバイトの女の子がコードレスフォンを持っている。
「朱音さん、電話なんだけど」
「だれ?」
「マンションの管理会社のもんだって」
 受話器を受け取って耳に当てた。
「もしもし」
「やあ……」
 心臓が止まりそうになった。思わずカウンターの隅の男を見た。こちらに気を配らず、相変わらず一人で飲んでいる。
「あなたなの?」
 受話器に向かって囁いた。声が上ずった。
「あなた、なのね?」
 ああ、とだけ矢矧啓次郎は言った。しばらく、言葉が途切れた。
「今、どこにいるの?」
「君の店の外だよ」
「すぐに逃げて」
 受話器を持って、スタッフルームに入った。
「尽誠会の連中が店に来てるの。私を見張ってるのよ」
「そうか」啓次郎は特に驚いた様子は見せなかった。
「連中、君に接触してきたんだな」
「武野って男から名刺をもらったわ。どこかの社会福祉法人の副会長らしいけど」
 受話器の向こうで、啓次郎がわらった。
「迷惑をかけた」
「気にしなくていい。平気よ。あんな奴らに負けないわ」
「そうか、強いな、君は。武野に睨まれたら大の男でもびびっちまうのに」
 私も怖かった。そういおうとしてやめた。今弱音を吐いても啓次郎を困らせるだけだ。
「逃げ場所に困ってるんでしょ?」
「正直いうと、君の手を借りたくて電話したんだ」
「私のマンションもあいつらに割れちゃってるわ」
「そうか。いや、悪かった。気にしないでくれ。君に迷惑はかけられない」
「待って、切らないで。私のマンションの前に大きな公園があったでしょ? しょうぶ沼公園っていうんだけど、公園の中に噴水があるわ。そこに夜の十二時に行くから待ってて。私のマンションは連中が張っていると思うから近づかないで」
「しかし……」
「迷惑ならもうかけられてるわ。いいわね、時間厳守よ。私は時間にルーズな男は嫌いなの」
 そういって、啓次郎が何か言う前に先に電話を切った。
 顔が火照るほど、胸が高鳴っていた。

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