逃れの海峡 10
10 逆転
「気絶したか。こいつ、タフだったな」
オールバックの声に恐る恐る眼を開けた。啓次郎が金髪男に羽交い絞めにされたまま、ぐったりしている。金髪男がその手を放し、だるそうに肩を回した。
「なあ、この女、先に食っちまおうぜ」
丸刈り男が朱音の首にナイフを押し付けたまま、空いている左手で乳房に触れてきた。
うつ伏せに倒れていた啓次郎の腕が動くのを、視界の片隅にとらえた。朱音の視線に気づいたオールバックが振り向いた。
ダラリと下げた手に、ナイフを握っている。
「まだ動けんのか、こいつ」
啓次郎が上体を起こした。眼が合った。もう少し我慢しろ。彼が眼でそういっているように思えた。
「今からこの女を喰っちまうから、おとなしくしてろよ。騒ぎやがると殺すぜ」
オールバックが威嚇するようにナイフを突き出して笑った。
啓次郎が、片方の膝をついてゆっくりと立ちあがった。そして、そろそろと両脚を伸した。
「お前、本当に殺されたいのか?」
啓次郎は首をゆっくり回した後、腕と肩を曲げ伸ばしした。各パーツの痛み具合を確かめているように見えた。
オールバックがナイフを前に突き出して啓次郎ににじり寄っていく。
「金、持ってるんだろ? じゃあ、百万で許してやるぜ。たった百万で命が助かるんだ。ただし、この女は置いていってもらう」
「お前、やっぱり頭がおかしいな。シンナーのやりすぎだ」
オールバックがまた笑った。口元が引きついている。
「こうなりゃ、死体になってもらうしかないな」
オールバックの手で刃がキラリと光った。
突然、啓次郎が踏み出した。距離を詰められ、オールバックが慌てて下がった。
啓次郎の腕がオールバックの胸倉を掴んだ。
オールバックの股間を膝で突きあげ、右手でナイフを握った腕を掴んでいた。
オールバックが悲鳴を上げた。慌てて飛び掛っていった金髪男が啓次郎に腹を蹴られ、床を転がった。
啓次郎の手にナイフが握られていた。オールバックが持っていたナイフだ。啓次郎がオールバックの後ろに回り、そのナイフを首に突き刺した。
オールバックが悲鳴を上げた。同時に朱音も悲鳴を上げて眼を閉じた。
「大騒ぎしなさんな。ナイフはまだ皮の下だ」
朱音が閉じていた眼を開けた。ナイフの刃が男の首の皮膚を貫いていた。皮膚の下にあるナイフの葉の形がはっきりと見える。
男の首から血が滴り落ち、白いシャツの胸元を赤く染めていた。残りの二人は身動きせず、啓次郎の腕のナイフを見ていた。
「動くと頚動脈が切れちまうぜ」
「た……助けて……」
「お前、俺が何をやったのか、尽誠会から聞いていないのかい?」
「え?」
「三日前の夜、歌舞伎町で尽誠会の会長が殺された事件を知ってるかい?」
オールバックが眼を見開いた。
「あ、あんたがやったのか……?」
「ああ、俺がやった。もうこうなっちまったら、一人殺るのも二人殺るのも同じだな」
「た、助けて! 助けてくれぇ!」
オールバックの身体がヒクッ、ヒクッと痙攣している。シャツの半分が血で真っ赤に染まっていた。
「し、死んじまう! このままじゃ、死んじまう!」
「じゃあ、くたばりな」
「お願いだ、助けてくれぇ!」
オールバックが泣き出した。
「おい、坊主頭。女を放せ」
丸刈りの男の手の震えが、喉に押し付けられたナイフの刃を伝ってくる。
「聞こえねえのかい?」
丸刈り男が慌てて朱音を離した。
啓次郎が顎をしゃくった。丸刈り男と金髪男が、顔を強張らせたまま部屋の隅に移動した。
「朱音、早く服を着ろ」
啓次郎がナイフを持つ腕を動かした。刃が皮膚を切り、少し肉に食いこんだ。オールバックの口から悲鳴が飛び出した。
「女みたいによく叫ぶ男だな。静かにしてろ。殺されたいのか?」啓次郎が手に力をこめる。
「いやだ、死にたくない!」
オールバック男が泣きそうな顔で口を噤んだ。
ブラジャーを着け、カバンの中から前の日まで来ていたワンピースを取り出した。ボタンが取れてしまっただけではなく、破けてしまっている。せっかく気に入っていたブラウスなのに、処分するしかない。
部屋の隅に追いやられた二人が同時に立ち上がろうとした。啓次郎が首に刺しこんだ刃をちょっとだけ動かした。オールバックが悲鳴をあげた。血が、白いワイシャツをべっとりと汚していた。
オールバックの顔には、びっしりと汗が浮いていた。真っ青な顔で、口を大きく開き眼を閉じていた。血の気も失せていて、時々眼を閉じる。失禁したのか、股間が滲んでいる。
「早く医者に連れて行かないと死んじまう!」
金髪男が叫んだ。
「じゃあ、さよならいいな」
「やめてくれぇ……」
ついにオールバックが泣き出した。
「根性のねえやつだ。小心者の癖にやくざの真似事なんかするんじゃねえよ」
啓次郎がナイフの刃をオールバックの首から抜いて、部屋の隅に突き飛ばした。シャツは背中の半分ほどが赤くそまっていた。丸刈り男と金髪男が慌てて抱き起こした。
「消えろ。早く病院に連れて行かないと、本当にくたばっちまうぜ」
三人が慌てて出ていった。
「啓次郎……」
朱音が彼の顔をなでた。顔中が腫れていて血が固まりかかっている。
啓次郎は洗面所で顔を洗った。朱音はタオルをカバンから取り出すと、啓次郎のそばにより、そっと顔を拭いた。
「痛い?」
「見ての通りだ」
二人並んで鏡に映っていた。鏡を通して見るほうが酷く見える。
「さっさとずらかるぞ。血塗れの男を通行人に見られたら警察に通報されちまう。ここにも警官はやってくるだろうからな」
朱音は頷いて、持ってきたセリーヌのトートバックを腕に抱えた。