逃れの海峡 11
11 漁港
朝七時にラブホテルを出て、再び沼津に戻った。
早朝の沼津港。しかし、漁船はもう港に戻り始めていた。
漁協の裏の駐車場にベンツを停め、啓次郎はタバコを吸っていた。目の前に民宿若竹と書いたライトバンが置いてある。
「私にも頂戴」
上着のポケットからセブンスターの箱を取り出して、朱音の膝に置いた。
「ああ、きつい」
「いつも何を吸ってるんだ?」
「前はセーラムライト。今はやめてるけど」
窓の外に煙が流れていく。
「お腹空いた」
「我慢しろ。こんな時間じゃ、どこも開いてない」
「コンビニ」
「後で好きなだけ買ってやる」
「あの若竹さんって頼りになるの?」フロントガラスの向こうのライトバンを見た。
「頼れるのは若竹さんだけだ」
港のほうからライトグリーンの籠を抱えた男が歩いてきた。啓次郎がドアを開けて外に出た。タバコを地面に落として踏みつける。
朱音も外に出た。ライトバンに籠を乗せていた男がこちらに気づいた。
「お久しぶりです」
「おまえか」
五十は過ぎている。皺が多く刻まれた顔に、鋭い眼が埋め込まれている。
男がチラッと朱音を見た。
「久しぶりだな。元気そうじゃねえか。こんな朝っぱらからデートか?」
「ここであなたを待っていました。話があるんです」
「俺にゃ、ねえな」
「話も聞いてくれないんですか?」
「碌でもねえ頼みだろ」
啓次郎が口を噤んだ。
「俺はおまえが気に入ってたんだぜ。なかなか骨のある男だと思ってたんだ。それがやくざなんかになりやがって。見損なったぜ」
「やくざになったんじゃありません。義理ができたんで、少し手を貸しただけです」
「け、それで誠司のやつぁ、死んじまったんだぜ」
「誠司が自分で選んだ道です」
「くだらねえことで命を粗末にしやがって」
男が咳払いをした。
「その顔はどうした。派手にやられてるじゃねえか」
「少し揉めただけです。大したことはありません」
「何が原因で揉めたんだ?」
「それは……」
「言いな、俺に話を聞いてもらいてえなら」
啓次郎はしばらく口を噤んだ。
「実は、人を殺りました」
若竹の動きが止まった。
「尽誠会の田所が東京でやられたってニュースをやってたな。おまえがやったのか?」
「はい」
「馬鹿な野郎だ。長生きできねえな、お前は」
「これが俺の生き方なんです。ダチの仇だったんで」
「自慢してんのか、馬鹿野郎が。誰がてめえに倅の仇討ちなんざ頼んだ」
若竹の口から出た誠司というのは、この男の息子だったのか。
「俺にだって我慢ならねえことくらいありますよ」
「で、俺に何の用なんだ?」
「船に乗せて欲しいんです」
「外国に逃げるのか?」
「韓国に」
若竹の目が、わずかに動いた。
「釜山か? 母ちゃんの故郷に行くのかい?」
「向こうの血が混じってるもんには、この国は少し暮らしにくいんですよ」
「向こうのほうが扱いは酷いぜ。日本人とのあいのことなんざ、口もきいてくれねえ。母方の親類だってお前のことを良く思ってねえ奴ぁ、いるんだろ?」
「ここよりはましです。逃げるのは嫌ですが」
「おまえ、金は持ってんのか?」
「二百万ほどあります。足りますか?」
「馬鹿やろう。見損なうんじゃねえ。金でやろうってんじゃねえよ。向こうに行ってやってけんのかって聞いてんだよ」
「すみません」
啓次郎が頭を下げた。
「はっきり言って……金は持ってる二百万だけです。これでやってくしかありません」
「船は俺が何とかしてやる」
「ありがというございます」
啓次郎が深々と頭を下げた。朱音も一緒に頭を下げる。
「ただし、船はここにはねえ。韓国行きの船となりゃ、日本海側に行かないとな。おまえは佐賀の唐津に行きな。呼子の岬で船に乗って対馬沖で遠洋の船に乗り換える。そこまでいきゃ、韓国の領海まで眼と鼻の先だ」
若竹が朱音を見た。
「姉ちゃんは、どこまでいくんだい?」
「彼が無事に船に乗るのを、見届けたいの」
「一緒にいかねえのか?」
「彼とはそこまでの仲じゃないの。一緒に岬まで行って、バイバイって手を振る程度の仲よ」
一瞬きょとんとした若竹が、大声で笑った。
「いい女じゃねえか」
「どうも」
若竹がまた笑った。笑顔は意外と愛嬌がある。
「尽誠会はお前が海外に高飛びすると見当つけるだろう。俺はお前達が富山に向かったよう、裏から情報を流す。連中を引っ掻き回してやるぜ」
「何から何まで、ありがとうございます」
啓次郎が、ポケットから車のキーを取り出した。
「中古で悪いですけど、俺の車を売ってください。人気の車種ですから、そこそこの金になると思います。俺にはもう必要ないものなんで」
「いくらなんだ?」
「買ったのは一千万くらいですけど、まだ、七、八百万くらいにはなります」
「売れたら金を送ってやる。向こうについたら連絡して来い」
「あれは若竹さんに」
「倅の親友からあんな高い車を分捕るわけにゃ、いかねえだろ。それに、海外で暮らすにゃ、何かと物入りだぜ。向こうの親類は最初のうちはあてにならねえかも知れねえからな。ただし、俺は車屋じゃねえんだ。いくらで売れるかは保障しないぜ」
「ありがとうございます」
「おう、向こうに着いたら必ず知らせな」
最後にふたりで深く頭を下げた。若竹はさっさとライトバンに乗ると、漁協の駐車場から走り去っていった。