逃れの海峡 12
12.玄界灘
三島で九時四十六分のひかりに乗った。
平日にもかかわらず、乗客は多かった。
「今のうち休んでおいたほうがいい」
啓次郎はそういうと、シートを倒して眼を閉じた。
三島駅を出たばかりのときは雲に隠れて見えなかった富士山が、いつの間にか姿を現していた。富士山を見るのはいつ以来だろう。
朱音も眼を閉じた。人の話声や列車の震動、時折横を通り過ぎる車内サービス。
神経が高ぶっていてなかなか眠れない。
静岡駅を発車してしばらくして、前の座席に二人組の男が座った。
男達は関西弁で喋り合いながら、時折後ろに視線を送ってくる。
まさか、追っ手なのか。朱音は何気ないそぶりで、男達の言葉や動きに注意を払った。
今、裏社会の人間に追われて逃げている。自分達を追っている者たちは、息を潜めて気配を消してそっと忍び寄ってきている。
啓次郎は隣で寝息を立てている。こんな逃げ場のない新幹線の車両の中で、よくも暢気に居眠りなど出来るものだ。
ふたりが尽誠会の手のものなら、逃げようもない。じたばたし立って、仕方ない。
朱音はそっと目を閉じた。
身体を揺すられて目を覚ました。
「よく寝ていたな」啓次郎がわらっている。「乗換えだ」
朱音はため息をついて席を立った。新幹線はいつの間にか新大阪に到着していた。駅の構内で弁当を買い、みずほに乗り換えた。
二人とも、黙って弁当を食べた。沈黙が続いたが気にならなかった。これまでの男とは、一緒にいて沈黙が続くとそわそわしたものだが、啓次郎相手だと、沈黙が気にならなかった。
博多で降りた。
旅館は予約していた。船に乗るのは明日。少し海が荒れ気味だが、明日には穏やかになるだろうと若竹は言っていた。
在来線で福吉というところまで行き、電車を降りた。旅館は駅のそばにあった。
古い旅館だった。三階建てで民宿というほどこじんまりしてはいないが、網元とか船主とかいう感じの小さな旅館だった。
部屋に入り窓から外を見上げる。玄界灘が見渡せる、いい部屋だった。
「ここからならレンタカーで唐津まですぐだ」
啓次郎が窓のそばの椅子に腰掛け、タバコに火をつけた。
「どうしてこのホテルにしたの?」
「連中は唐津に網を張るかもしれないからな。若竹さんはうまく誤魔化してくれるといっていたが、明日には俺達が富山にいないことはばれちまうだろう。連中の情報網は馬鹿に出来ないんだ。そうなると、次にあいつらが網を張るのは北九州か唐津なんだ」
啓次郎がタバコの煙を吐き出した。煙が窓の外に流れていく。
「ちょっと、外を歩かない?」
「俺達は逃亡中の身だぜ」
「あいつら、ここには来ないんでしょ? それに、日本も見納めになるんじゃない?」
「見納めとは大げさだな。ほとぼりが醒めるまでだ」
「夕食まではまだ間があるわ。いきましょう」
海岸に沿って伸びる道路を歩いた。コンビにもあればレンタカーもある。何もない場所だったが、田舎というほど寂れているわけでもない。近くにはゴルフ場もあった。
防潮堤に突き当たった。沖に伸びる防波堤が見えた。何艘もの漁船が横付けされている。比較的大きな漁港だった。
啓次郎は防潮堤にもたれて煙草をくわえた。
「一緒に行きたいわ」
「なんだって?」
「一緒に釜山に連れて行って」
風で髪が舞い上がった。指で髪を押さえる。
「あなたについていきたいの。釜山には頼れる人もいるんでしょ? 尽誠会の連中にも見つからないんでしょ?」
「あのなあ」
啓次郎が煙草を指で弾き飛ばした。
「駄目だって言わせないわ。最初は私を連れて行く気だったんでしょ」
朱音の眼から涙がこぼれ落ちた。どうして泣いてしまったのか、自分でもわからなかった。
「逃げる俺に手を振って見送る程度の仲だったんじゃないのかい?」
「そのつもりだったけど、わかんないの。急に一緒に行きたくなったの」
啓次郎が二本目の煙草をくわえた。また眼から涙がこぼれ落ちた。頭上から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「頼れる人といっても、俺は親類縁者から嫌われているんだ。向こうのダチだってどこまで頼りにできたものか。なんの当てもないのと同じなんだ」
「それでも、離れたくないの。こんな気持ちになったの、初めてよ」
「外国で暮らすのは大変だぜ。それに、無事に海を渡れるって決まってるわけじゃない」
「覚悟の上よ」
朱音がようやくポケットからハンカチをとり出した。
「親と妹はどうするんだい?」
「ほとぼりが醒めるまでって、あなたがさっきいったのよ」
啓次郎が笑った。
防波堤のほうまで行こうと、彼が言った。
風は強く、波も高かった。海際にそそり立っている旅館の屋根に大きな鳥が止まった。鳶のようだった。
歩きながら彼が携帯電話を取り出した。相手は若竹のようだった。女も連れて行くという言葉が聞こえてきた。そしていくつか言葉を交わした後、啓次郎が笑った。話がまとまったのだとわかった。
「若竹さん、なんていってた?」
「お前を連れていくっていったら、そうでなくっちゃってな」
「どういう意味? 私を連れて行くことに賛成してくれてるってこと?」
「さあな。俺は止められると思ったんだが。あの人が何を考えているか、わからないときがある。それに、俺達が富山に着いたって偽情報を裏で流したといっていた。連中が食いついたかどうかはまだわからないらしいが」
「とりあえずは時間稼ぎが出来るってわけね」
「船は予定通りだ。海も明日には穏やかになるだろって話だ」
「本当に大丈夫かしら」
荒れる海面を見ていて、朱音は不安になってきた。
「海の男の言葉を信じよう」
「明日の朝、どこかでお金を下ろさなくっちゃ。逃亡資金よ。こつこつ貯めておいてよかったわ」
「そりゃ、頼りになる」
近くをタクシーが通りかかった。啓次郎が手を挙げると、そばまできて停まった。