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処女の秘孔は蜜の味 21



21 取り残された二人

 コーヒーを淹れた。
 腕時計に目をやる。そろそろ時間になったのでコーヒーをカップに注いだ。
 銃弾を受けたハユンを車に乗せ、佐藤小隊は後続のアメリカ陸軍中隊と合流しようとした。しかし、中隊は中国軍の奇襲に遭い、はるか後方に退却した後だった。そして残されたのは傷ついたアメリカ兵たちと、彼らの仲間の死体だけだった。
 辰雄は仲間達と近くの街に逃げ込んだが、食料がなかった。ちょうど無人となったペンションがあったので、そこに身を隠すことにした。
 ハユンを連れ歩くのは危険だと判断した佐藤二尉は、辰雄にハユンを預け、食料を探しに行った。
 ノックしても返事は無い。いつもの事なので気にせずドアを開けると、ベッドに体を預け、ハユンが眠りいっていた。儚げなその姿は、何だかこの数日で随分小さくなってしまった気がする。
「ハユン」
 一呼吸置いてからゆっくりと彼女に声をかける。気だるそうにしながらも、辰雄の声が届くと彼女はうっすらと目を開けた。
 やがて気だるそうに唇を動かしながら答える。
「おはよう、辰雄」
「これでも飲んどけ。目、覚めるから。熱いから気をつけろよ」
「うん…」
 ハユンはベッドの上で上体を起こし、コーヒーに息を吹きかけて冷ましながら一口ずつ啜る。顔に赤みが少し戻った。
「調子はどうだ」
「大丈夫……悪くないよ」
 しかし、どう見てもよくは見えない。銃弾は体を貫通していたが、ハユンはベッドの上から殆ど動かない生活を送っている。
「食欲はあんまり無いけどね……。それよりさ、さっきすっごく懐かしい夢を見たの」
 ここ数日、ハユンは自分が見た夢の話をするようになった。それは現実からの逃避なのだろうか、あるいはかつての日々への邂逅を望んでいるせいなのか。辰雄はただ、彼女の話を聞くことしか出来ない。
「中学校時代に戻っててね。学校に行ってて……それで友達と遊んだりして……それから……一緒に帰ってね……」
「そうかい」
 ハユンの目尻にどんどん涙が溜まっていく。
「友達に、会いたいな……」そう言ったきりハユンはうつむいて黙ってしまった。
 彼女と仲のよかった友人のほとんどが戦争で死んだ。アメリカ軍の従軍慰安婦となって軍の保護下に入った彼女はこの戦争を生き残れるはずだったのに、今こんな目に遭っているのは不幸としか言いようがない。
 ペンションにある食料は二人で三日分。もうすぐ食料が尽きる。ハユンはあまり食べる事が出来ないので、実質的にはまだ多少の余裕はあるが、それでも危機的状況であることに変わりはなかった。
 ペンションの周囲ではしばらく、銃声や砲声が聞こえていていたが、昨日あたりから聞こえてこなくなった。国連軍や敵の中国軍で何らかの動きがあったのかも分からない。あったとしてもそれを確認するすべなど辰雄にはありはしない。
「なぁハユン」
「なに……っ? ごほっ……」
 ハユンは頻繁に咳をするようになった。時折激しく咳き込む。
「街に出て様子を見に行こうと思うんだが」
 食料が足りないということはハユンには言いたくなかった。ただでさえ病気で不安だろうに、余計なことまで心配をかけたくない。
「うん、いいんじゃない。誰かこの街に戻ってきてるかもしれないしね」
 期待を込めた瞳を向けるハユンの目を、辰雄はまともに見ることが出来なかった。
 あんな廃墟の街に戻ってくる物好きなど、いるはずがない。
 そんな言葉を飲み込んで、辰雄はハユンと再び向き合う。彼女の目を見つめることで、辰雄は半ば無理矢理使命感を駆り立たせた。
「安静にしてろよ」
 頷く彼女を残して部屋を出る。軽く深呼吸した後、出口に通ずるドアの目の前で一度大きく背筋を伸ばす。
 歩いて近くのトンネルに向う。かつてはコンクリートで舗装されていたのだろうが、今やただの土しか残っていない山道を下っていくと、やがて見慣れた大きな空洞が見えた。
「よう、生きてるか?」
 トンネルの中を覗くと、頬に真っ黒なすすを付けた男が、手製らしき椅子に腰掛けながら居眠りをしていた。近づいていったら、気配でも感じたのか男が目を開けた。そしてふいに目が合った瞬間、まるで少年みたいな笑顔を僕に向けてきた。
「よう」
 苗字は国安。名前は知らない。いや、この国安という名が本名かどうかも怪しい。
 韓国に移住した民間人だが、街が廃墟となり住んでいた家が消失しても、こうやって近くのトンネルの中で暮らしている。
 辰雄はこの男がスパイだと思っていた。中国の支配下におかれた朝鮮半島にも、多くの日本人が住んでいたが、戦火で焼かれた街からその多くが逃げ出している。しかし、この男は家を失った今もこうしてトンネルの中で暮らしながら街の様子を窺っているのだ。
「ちょっと街まで行きたいんだが、あんたの車に乗っけてくれないか?」
 図々しい物言いだが、この男にはそんなことを気にする必要はない。嫌なら嫌という男だ。だが、国安は嬉しそうに目を細める。
「ああ、いいぜ」
 この男は元々タクシーの運転手で、戦争中もこの異国の辺境の街でタクシーを転がしていた。今でも商売道具のタクシーを転がして、客などいない街を時々走っている。今となっては、彼のタクシーに乗る客は辰雄だけだ。
 いや、金を払ったことなどないので、客とはいえない。
 国安が椅子を出してきた。腰掛けると、ぐらつく。少々いびつで左右のバランスの悪い椅子だ。
「あんな街に何をしにいくんだい?」
「食料の調達だ」
 国安がわらった。
「本気で言ってるのかい? あんな廃墟に食いもんなんかありゃしないさ」
「缶詰くらい転がってるさ」
「みんな食い尽くされちまってるよ」
 国安がタバコを銜えた。
「姉ちゃんの様子はどうなんだい?」
「よくねえな。弾は貫通していたんだが」
「なんだかんだいっても、女は弱ええからな」
 どこが悪いというものでもない。娼婦のハユンはこれまで身体を酷使してきた。傷を負って余計に弱ってしまったのだろう。
「お仲間たちは?」
「まだ、何の連絡もない」
「もう、戻ってこないんじゃねえのか? お前はお荷物を押し付けられて捨てられたんだぜ」
「それならそれでいい」
「女を楽にしてやってから、逃げるって手もあるぜ」
 国安の目からすっと温かみが消えた。普通の人間なら、いいたくとも決して口にしない残酷な言葉だ。
 やはり、この男はスパイなのだ。
「いい女なんだ。怪我を治したらたんまり身体で返してもらうさ」
 国安がわらった。
 タクシーの準備し始めた国安の姿を、頬杖をついて眺める。乗り手のいるはずのないタクシーをほぼ毎日運行している。しかもこんなご時世だ。幸い、破壊された車両があちこちに転がっていて、タンクに残っている燃料には事欠かない。
 やがて、勢い良くエンジンのかかった音が聞こえた。同時にタクシーの後ろ側のドアが開く。
「さぁ、乗れ」
 弾んだ調子で辰雄に搭乗を促した。
 山を下る。日に日に気温が下がり、山の木々は随分と寂しくなってきている。見る見るうちに景色が変っていき、街の残骸が木々の切れ間から覗かせるようになってきた。
 タクシーに揺られながら、中国軍の攻撃で破壊された街を眺めていた。
 この街には誰一人として生存者はいないだろう。


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