処女の秘孔は蜜の味 22
22 廃墟に現れた自衛官
「着いたぜ」
運転席に座ったまま国安はそう言い、ドアを開けた。
「1200円だ」
そう言って手を差し出してくる。彼の口元が緩んでいた。
思わず苦笑した。運賃を請求されるのなど、初めてだった。
「円じゃなくってウォンだろ?」
「ウォンなんざ、紙くずだよ。やっぱり円だな。日本が誇る世界最強の通貨だからな」
「つけといてくれ」
タクシーから降りると、冷たい風が辰雄の体を突き刺していく。体を丸めながら足を進め、とりあえず食料がありそうな場所に向う。
街の中心部にある、元々はスーパーマーケットが建っていたと思われる場所に着いた。爆撃を受けたのだろう、そこには建物の代わりに瓦礫が山のように不規則に積まれていた。しばらく眺めて、一度白い息を肺から思いっきり吐き出してから、その瓦礫の山の間を彷徨い、残った保存食がないかを調べ始めた。
周囲には腐敗臭が漂っている。生ものや普通の食べ物はとっくに駄目になっているだろうが、保存の利く缶詰や乾物とかだったらまだ大丈夫かもしれない。
一つ一つ丁寧にコンクリートやプラスチックの破片を除けていく。思ったより体力のいる作業だった。この寒さだというのに、三十分も作業を続ける頃にはうっすら汗が滲んできた。
瓦礫を除けていく。一瞬体が止まった。それを手に取り、様々な角度から眺める。
「骨…か」
肉体が焼かれ、残った白色の骨が瓦礫の中に埋まっていた。形は既にぼろぼろだったのでどこの部分かなどは分からない。辰雄はその骨に向って何となく神妙な面持ちで手を合わせてから、それを脇に置き再び瓦礫を除け始めた。
ハユンの事を考える。いい身体をした、アメリカ兵たちに人気の娼婦だったが、今は脆くて危ういガラス細工のようなボロボロの体になった。
ペンションに運び込んだときは碌に口も聞けないくらい衰弱していたが、徐々に回復してきている。
だが、ここ数日で目に見えて食欲が落ち、盛んに咳き込むようになった。
そして昨日の朝、突然ハユンは吐血した。その時はそれだけで済んだが、ハユンはずっと寝たきりだ。
ハユンを守れるのは辰雄だけだ。ここに来た目的も食料の確保もあるがハユンに飲ませる有効な薬がないかというのも大事な目的だった。
瓦礫の中を漁り続けていると、急に黒くて硬いものがゴミの塊の中から現われた。その物体の両端を掴み一気に引っ張り上げる。引っ張り出されたものは、ラジオだった。それも相当昔のものらしくボタン式ではなく右手でつまみを回して周波数を変え、アナログ式にメーターでそれを表すタイプのものだった。
ペンションのテレビは当然映らない。最近の世間様の情報を知ることの出来るものが何一つ無かった。
アンテナを引っ張ってスイッチを入れてみる。電池はまだぎりぎり生きていたようで、微かなノイズが辺りに響き渡った。つまみを回して周波数を変えながらそのノイズに耳を澄ます。適当に回しているうちにやがて一瞬声らしき音が聞こえた。
「…あ…まれ……のこ……たちよ」
日本語だった。
しかし、なんといっているのかよく聞こえない。辰雄はラジオの横側面を手の平で叩いた。意外にも少し音がクリアになった。
「私た…に…る。…ざ…おぜいのいきの……もいる。場所はワダ…ミ市東部…港にある倉庫だ」
唯一はっきり聞き取れた単語。ワダツミ市。ここから車で約20分程の所にある港街だ。そこに生き残りがいるのか。
「…がんばれ。もうすぐ助けは来る……」
しかし一足遅かったらしく、それから後はひたすらノイズが流れ続ける。
辰雄は食料や薬を探すことさえ忘れて、呆然とラジオが再開されるのを待っていたが、結局、音声が再びラジオから流れ出てくることはなかった。
深呼吸を二回した。気を取り直して再び食料と薬探しを再開する。ラジオの言うワダツミ市の情報は確かに貴重なものだが、冷静に考えると改めて疑念が湧いて来る。それに、今ハユンを移動させるのはあまり得策ではない気がした。
スーパーの焼け跡に残っていたであろう物資は、ほとんど燃えてしまったのかあるいは数少ない生存者に奪われてしまったのか、めぼしい物はほとんど手に入らなかった。それでも、数個の魚と肉と果物の缶詰とスルメが見つかった。
さらに街を一回りして何か残っていないか探した。
殺風景な、どこを歩いていても山全体が見渡せてしまうほど、街は瓦礫で崩れ去ってしまっていた。ぽつり、ぽつりと焼け残った建物もあるにはあるが、およそ物資を期待できるような雰囲気ではなかった。
約束どおり、国安はタクシーでやってきた。
溜めていたタクシー代だといって魚の缶詰を差し出した。
「本当に、もらっていいのかい? 姉ちゃんに食わしてやれよ」
「いいんだよ。ペンションにもまだ食料は残っているし、果物の缶詰もある」
「じゃあ、遠慮なく」
国安はタクシーを走らせペンションのある山へと戻っていく。ハユンへの手土産も手に入った。
トンネルの前でタクシーを降り、ペンションに向かって歩いていく。
「ん……?」
前方。遥か遠くの数キロ先位だろうか、一瞬だが確かに大気が切り裂かれた。銃声のような音が、ここまで響いてきた。同時に、微かだが大地が震えるのも足の裏で感じた。嫌な予感がした、と同時に体に緊張が走る。
中国軍か。しかし、既に廃墟になっている街になど、軍に用はないはずだ。
では、誰か生き残っている人間なのか。街に物資を求めてやってきたのなら、警戒が必要だ。もしそんな連中が飢えている人間だったら、こちらを発見した場合、まず食料のありかを尋ねるだろう。知らないといっても、信じてもらえるとは思えない。そして次に連中が取る行動はペンションに押し入って家捜しをする。下手すれば、ハユンにまで危険が及ぶ可能性もある。
徐々にだが、その音は大きく、近くに迫ってきている。このペースだと下手すればあと数分で接触してしまうだろう。辰雄はすぐに走り出した。
視界に見慣れないものが入った。
黒色のジープが突然姿を現し、猛スピードでペンションに近づいていく。いや、それより辰雄の存在に気付いた可能性も十分あった。こっちが肉眼で確認できたのだ、あっちにもこちらの姿が見えたかもしれない。辰雄は地を蹴り上げ走り出していた。
ブレーキを掛けたような音が聞こえた。辰雄に気づいたジープが停車したのだ。
少し遅れて人の声らしきものが聞こえた。
「おい、とまれ!」
若い男の声。日本語だった。
辰雄がジープに近寄っていった。男が二人乗っている。ふたりとも自衛隊の軍服を着ている。
男のひとりがジープから降りてきた。
「私の名前は吉野だ。階級は二等兵。君は?」
「藤島辰雄。アメリカ陸軍第四師団の第34中隊所属の作業員だ」
「米軍の?」
「ボランティアだよ。日本から無理やり連れてこられたんだ」
「どうしてここに?」
「中国軍の奇襲を受けて後退してきた。仲間達や米軍は先に後退したが、重症の怪我人がいて動かせなかったので、俺だけがここに残っている。今、ここで仲間達が迎えに来るのを待っているところだ」
男は黙って頷くと、大きく深呼吸してその芯の通った低い声を再び響かせた。
「私たちと一緒に来ないか? ここは危険だ。私たちのところに来ればとりあえず食料はある。医療設備も万全とはいえないが一応はある。私たちは君のような生き残りの日本人の救助をしているんだ」
『医療』という言葉を聞いた瞬間、ハユンの顔が頭に浮かんだ。彼女をこのままペンションに寝かせたままだと助かる見込みはまずない。でも、もし治療を受けられるなら……。
「おい、なにやってんだよ吉野」
ふいに彼の後方から、もう一人男の声が響いた。徐々にこっちに近づいてくる。
「浜田曹長……」
「ふん、この坊やが生き残りか」
吉野とは対照的に、鋭い目つきの痩せた男だった。吉野の隣に立ち辰雄を眺めているが、別段興味を持っているわけではないのは目を見て感じ取れた。
「救助をしているのは日本人だけか?」
「他に誰を助けようってんだ? アメリカ人はアメリカ軍が面倒を見るし、中国人は敵だ。見つけたら殺すだけだろ」
浜田が馬鹿にするような眼で辰雄を見た。
「韓国人は?」
「韓国人? そんなの助けるわけねえだろ。人間じゃなくて虫じゃねえか。養うだけ食料の無駄だ」
「ふん、そうだな」
今までどこで生活していたか、食料はどうしていたのか、他に生き残りの知り合いはいないのか、などを何度も吉野と質問された。
「それで、どうするんだ君は。ついてくるのか? それとも、ここで仲間が来るのを待つのか?」
二人の男に見つめられながら、吉野の再度の問いに辰雄は静かに口を開く。どのみち、選択肢なんて無かった。
「連れて行ってくれ。怪我をしている女の子も診てやって欲しいんだ」
「ああ、そりゃ結構だ」
浜田と言う男が愉快そうに答えた。
「だが、韓国人なんだ」
「女なら韓国人でも大歓迎だぜ。人間扱いしてやる」
嫌な笑い方だ。この男は何かをたくらんでいる。
ジープに乗り込み、車を走らせる。国安の事は言わなかった。きっと彼なら、この男たちについていくことよりタクシーを巡回させることを選ぶだろうということは容易に想像がついたからだ。
ハユンのいるペンションへと、ジープは砂埃を舞い上がらせながらゆっくりと走っていった。