処女の秘孔は蜜の味 25
25 廃墟の臨津江
「気持ちいい風だ」
大きく伸びをしながら、小池は上機嫌で呟く。辰雄はハユンの車椅子を押して、柵際まで近づいていった。辰雄とハユンは、黙って柵の向こう側を眺めた。すっかりと変わり果てた「廃墟」の向こうに、臨津江(イムジンガン)が広がっていた。
こうやって、一歩距離を置いて遠くからこの光景を眺めると、山から眺めるより近い分、余計に誰も生き残っていないという現実が襲ってきた。
ハユンが辰雄の手を握った。
政府のエゴで連れてこられた若者達の多くがこの地で命を失った。
馬鹿なことをしたものだ。十年も戦争を続けて何もかも失って、いったい何が楽しいのか。
「ここに来るたび思い知らされるよ。世界は本当に変ってしまったんだな、ってね」
いつの間にか辰雄の隣に立っていた小池が、目を細め、遥か遠くを見つめながら静かに呟いた。
「小池さんは、この基地にいつ頃からいたんだい?」辰雄が尋ねた。
「二か月ぐらい前からだな。でも、それまでもほとんど浮浪者みたいな生活だったからなぁ。道端に落ちているものとか拾って食べながら何とか生き延びてたんだけどね、さすがに限界かな、と思っていたときに彼らに保護されたんだ」
いつものニコニコした笑顔を浮かべながら、彼は明るい調子で答えた。
「日本人にとって、住みにくい町だったのかい?」
「まあ、韓国といっても実質的には中国の一部だから、表現の自由なんてなかったし、それに加えて韓国人の反日精神は今も生きているからね。日本人への恨みは千年、子孫永代続くんだって中国に支配される前から韓国人は叫んでいたけど、中国に全土を占領されて虐げられている今もその精神は生きているみたいだから」
ハユンが気まずそうに俯いた。彼女に反日の気持ちなんてないことは辰雄はよく知っている。
「じゃあ、どうしてこの街に住んでいたんだい?」
「俺にとっては、日本よりずっと住みやすかったよ。表現の自由も韓国人の反日感情も、俺には関係なかったから。でも、日本は俺から本当の自由を奪おうとしたんだ」
「ボランティアかい?」
小池は頷いた。
「日本の無能な政治家のために、無意味に戦って死ぬなんてごめんだから、高校を卒業するとすぐに海を渡って韓国にきたんだ」
「わざわざ韓国に来なくったって、アメリカやヨーロッパのほうが自由を謳歌できたんじゃないのかい?」
「他所の国じゃ、日本に強制送還されちまう。そういう意味ではここは安全だ。戦場だから政府のシステムは混乱しっぱなしだし、戦闘が始まれば他所に逃げればいいだけだから。もっとも、逃げ遅れてこんなところに来ることになったんだけど」
「小池さんは、以前は何をしていたんですか?」ハユンが初めて小池に話しかけた。
「ん。別にこれといって何もしていなかったかな。たまに仕事して、少しお金が貯まったらちょっと地方をぐるっと旅行してみたり。好き勝手に生きてたよ。偶然この街に滞在して、そして、生き残っちゃったんだな、これが」
喜んでいるのか憂えているのか、肩をすくめるようなしぐさをしながらそう言う。
「これから、どうなるんでしょうね」
「分からないけど……。国連軍の機能が回復して支援団体が生き残ってくれれば、まだ希望は持てる。だが、あの吉野君の話を聞く限りじゃあ、現状では厳しいだろうね」
そう言ったきり白い息を深々と吐き出す。ハユンも悲しく、やるせない気持ちになってしまっているのがわかる。
辰雄は特に返答することも無く黙って外を眺めていた。俺には関係のない話だ。
「この寒さは体にこたえるだろう。二人とも、もうそろそろ中に入った方がいいよ」
「そうだな。ハユン、中に戻ろう。小池さんは?」
「僕はもう少しだけ外を眺めているよ。なんせ余命わずかなもんだから、出来る限り外の光景を目に焼き付けておきたいんだ」
「そんなに悪いんですか?」
ハユンが心配そうに小池を見つめている。
「まあ、寿命だと諦めているよ」
それっきり口をつぐみ、小池は再び柵に掴まりながら外を眺め続けた。
辰雄はハユンを連れて、基地の中へ戻った。
医務室に戻ると、疲れたのかハユンはベッドにすぐに横になった。しばらく呼吸が荒くなっていたが、しばらく見守っているうちにやがて落ち着いていった。面会時間はもうじき終わりだ。
急に入り口のドアが開け放たれた。小池が、そこには立っていた。
「先生、やっぱりもう少し薬を頂きたいんですよ。どうもこの量じゃ不安で」
また椅子に座りながら居眠りしている医者の肩を揺らしながら、小池は声を張り上げた。煩わしそうに彼の手を払いのけると、医者はおもむろに立ち上がり奥のダンボールの山を漁り始めた。
「ああ、悪い、もうここには置いてないんだった」
それを聞くと、小池は分かりやすいぐらい心底悲しそうな表情になった。
「浜田曹長が確か持っていたはずだから、いくつか譲ってもらったら? 頼めばくれるかもよ」
顎に手をあて少し思案するようなしぐさをしてから、彼は結論が出たらしく頷く。
「分かった、邪魔したね」
「おいおい、今から行く気か? 浜田さんは夕方以降は他人に干渉されるのが大っ嫌いなの知ってるだろ? 明日にしなよ」
「駄目だ、今貰っておかないと心配で夜も眠れない。じゃ、辰雄君とハユンちゃん、また明日な」
そう言って、小池がさっさと部屋を出て行く。一つ気になったことがあったので、彼が部屋から遠ざかって行った後、声を潜めて医者に話しかけた。
「先生」
「なにかね?」いかにも面倒そうに、医者は返事をした。
「小池さんが飲んでる薬って、何の薬なんだい? 浜田さんも服用してるってことは心臓の薬じゃないんだろ?」
それを聞くと、何が可笑しいのか医者は唇の端を曲げながら笑みを浮かべた。
「ああ、あれは精神安定剤だよ。小池さんの場合、心臓に対する処置はもうどうしようもないからね。せめて不安だけでも取り除いておこうってことで。浜田さんは、一応定期的に処方している。見た感じ、別に必要なさそうなんだけどねぇ。ま、このご時世だ。多かれ少なかれ皆色々不安を抱えて生きてるって事だろうね」
そこまで言うと、彼はちらりと時計に目をやった。
浜田という男は見かけに寄らず繊細な神経をしているらしい。
「さぁ、もうすぐ消灯の時間だ、早く部屋に戻った方がいいぞ。浜田曹長に見つかると色々うるさいからね」
「そうだな」
辰雄が病室を覗くと、ハユンは寝息を立てていた。辰雄は医務室を出て、そのまま自分の部屋へ戻ろうと足を踏み出した。
「あ、ちょっと」
振り返ると、そこにいたのはさっきまで医務室に一緒に居た医者だった。その真剣な表情に、辰雄の背中に冷たいものが走った
「彼女の事で少し話があるんだけど、ちょっといいかな」