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処女の秘孔は蜜の味 26



26 悪の所業

 辰雄は山の上から焼け野原になっていく街をただ黙って見つめている。そこには何の感情も差し挟まれてはいない。ただ、呆然と見つめているだけだ。目を動かすと、山のふもとに血まみれの男の姿が見えた。
 一瞬の後に起こる爆撃音。目も眩むようなまぶしさに包まれながら、辰雄は現実の世界へ引き戻されていった。
 考える事が多過ぎると脳は意図的に思考の幅を狭めようとするのだろうか。そのときの事を思い出しても、辰雄は大してショックを感じていなかった。
「彼女はもしかしたらあと少しの命かもしれないって事を、君に伝えておきたかったんだ」
 そんなことはわかっている。ハユンを見ていればそれくらいわかる。
 医者なんだからハユンを治せよ。訳知り顔の医者にそういってやりたかった。しかし、何にでも寿命というものはある。
 ハユンが間もなく死んでしまうのなら、それはハユンの寿命だ。医者のせいでも俺のせいでもない。
 気分は最悪だった。それでも朝食を取らないといけない。
 ドアを開けで外を覗いてみる。
「ん……?」
 隣の小池もまだ食事を済ませていないようだった。部屋の時計に目をやる。十時三十分。いつも早起きの彼にしてはえらく目覚めるのが遅い。
 部屋をノックしてみる。返事はない。さっきの夢のせいか、途端に悲愴な想像が頭を駆け巡り始めた。もどかしくなり思い切ってドアノブを捻ると、意外にも鍵は開けっ放しだった。開いたドアから中を覗いたが、小池はいなかった。
 辰雄は手早く朝食を済ませ、ハユンのいる医務室に向った。だがそこにも、小池はいなかった。
 病室に入ると、ハユンは辰雄を見た。
「調子はどうだ、ハユン」
「今朝は気分がいいわ」
 そういって、いつものように、夢の話をした。ソウルで中華料理を食べた夢を見たといった。
「あのお店、美味しかった。また行きたいな」
「その店なら知ってるぜ。すげえ高い店だろ? 俺には無理だ。お前みたいに稼ぎがよくないから」
「ソウルに戻ったらご馳走してあげる」
「約束だぜ。絶対にソウルに戻ろう」
 ハユンが微笑みながら頷いている。しかし、彼女が生きてソウルに戻れる可能性が低いだろう。
 辰雄は早めに医務室を出て、小池を探しに基地の中をうろつきまわった。どうも彼のことが気になって仕方がなかった。
「あ、ちょっと」
 廊下に、一人の女性が立っているのを発見した。二十代前半といったところだろうか、長い黒髪を手で弄びながら、あまり生気の感じられない無機質な顔をこっちに向けてくる。
たしか、優希菜という女だった。
「なに?」
 どこか煩わしそうに尋ねてくる彼女の目。視線を合わせた瞬間、その目が辰雄を見ているようで見てないのがはっきりと見て取れた。
 彼女の心の闇が見えたような気がした。亡くした親しい誰かを、あるいは辰雄の奥に見ているのかもしれない。
「小池さんを見かけなかったかい?」
「誰、それ」
「小池さんだよ、知ってるだろ?」
「知らない……」
「え?」
「知らないわよ、そんなことで話しかけないで、煩いわね!」
 何が彼女の逆鱗に触れてしまったのか辰雄にはさっぱり分からなかったが、彼女は足早に去ってしまった。
 この基地にはいろんな奴がいる。
 辰雄は再び基地内の散策に出た。なおも歩き回っていると、前方から吉野と浜田が歩いてくる姿が目に入り、迷わず二人に駆け寄る。
「小池さんの姿をさっきから見ないんだが、どこにいるか知らないかい?」
 二人は立ち止まる。それを聞いた浜田は急に神妙な顔つきになり、頭を掻き毟りながら視線を泳がせていたが、やがて口を開く。
「小池……? ああ、あいつか。実は昨日の夜、俺の部屋まで来て薬を貰いに来てたんだが、俺が薬を探している途中で急に持病の発作が起きてね。色々手は尽くしたんだが」
「だが?」そう相槌を打つ辰雄の背筋に、冷たいものが走る。
「結局、設備が不十分だったせいで亡くなっちまった。昨日の夜中ひっそりと埋葬してきたんだ」
 吉野も知らなかったらしく、それを聞くと目を剥いて浜田の方を見た。いやそんなことはどうでもいい。小池が、死んだ。せっかく生き延びたのに。
「元々心臓を病んでいた人だから、いつこうなってもおかしくないな、とは思ってたんだが」
 浜田が何か言い続けているのは耳には入っていたが、頭には入っていなかった。代わりに、昨日医者に言われた台詞がボンヤリと脳裏に蘇ってきた。

 小池が死んだことについてぼんやり考えていると、知らないうちに辰雄は見覚えの無い通路に出ていた。いつも通っている部屋へと続く廊下に雰囲気は似ているが、何かが違っている。
 その道をさらに進むと、やがて地下に続く部屋が見つかった。その部屋の中を覗いてみたがなんのことはない、辰雄の部屋より若干広い以外は別段代わったところも無い普通の部屋だった。置いてある軍帽などから、吉野か浜田、あるいは二人の部屋なのだろう。
部屋の奥に入ってみると、奥の棚に缶詰が並べられているのが目に入った。その缶詰に妙に見覚えがあるような気がした。
 もっと近づいて確認した
「これは……!」
 足音が二つ、階段の先から聞こえてきた。慌てて隠れる場所を探し、ベッドの下に潜り込んで息を潜めた。
 やがて、吉野と浜田のものと思われる声が聞こえてきた。だが二人はどうやら口論をしているようだった。吉野が一方的に興奮しているようだ。
「そんなの、許されるはずが無いじゃないですか!」
「うるせぇな。こんなご時世になっても、まだいい子ちゃんぶるのかよ、お前は」
 うざったそうに髪を掻き揚げながら浜田が部屋に入ってくる。続いて吉野も。
「俺達は、人命救助のために活動してきたんでしょう!」
「ああ」
「だったら、なんで……」
 悲しそうに、唇を噛み締めながら呟く吉野。ただ事じゃない雰囲気がその場に立ち込める一方で、浜田は顔色一つ変えず、むしろ前に見せたあの不快な笑顔をちらつかせていた。
「人命救助だぜ。女は生かしておいてやるって言ってるんだ。立派な人命救助じゃねぇかよ」
「あんたは人に命を何だと思ってるんだ! ここにいる生き残りのうち三人の女性以外は殺すなんて……。絶対間違ってる。一体どうしてしまったんですか、浜田さん。最初の頃は生存者を助けようと俺に言ってたじゃないですか、あれは嘘だったって言うんですか!」
 二人に聞こえてしまうんじゃないかと思うぐらい、心臓が激しく脈打った。今、吉野は何を言った? 女性以外は、殺す?
 睨みつけるように浜田を見つめる吉野を尻目に、浜田はポケットから煙草を一本取り出し、それを口にくわえると火をつけ始める。やがて、大きく白煙を吐き出した後
「気が変ったんだよ。このままじゃ食料が足りなくなるんだからしょうがねぇだろうが。口に気ぃつけろ、吉野二等兵」
 そう呟いてから、缶詰の置いてある棚へ近づいていく。
「それにしても、こいつは助かったぜ。あの藤島とかいう奴と韓国人の女から頂いた缶詰だ」
 浜田が、棚においてある缶詰を見ながらにやけている。
「だが、この缶詰を足しても一ヶ月ももたない。そんな事は分かってんだろ?」
 怒りより先に、ただ衝撃が辰雄の心をかきむしっていた。
「じゃあ、せめて彼らだけでもその食料を渡して逃がすのは……」
 吉野が懇願するように浜田に問いかける。だが浜田は鼻にもかけない様子で言い放った。
「馬鹿かお前は。食料を渡しちまったら本末転倒だろうが。女は俺達の慰みもんになってもらう。あのハユンとかいう韓国人もいい体してるしな。だが、それ以外の奴らに利用価値は無い。男はなぁ、いてもくその役にもたたねぇ。食料をがつがつ食うだけだ。街に解き放って浮浪者になられるのも困る。中国兵に捕まってこの基地のことを喋られたらまずいからな。ま、今のうちに始末するのがベターってもんよ」
「小池さんも、そうやって殺したんですか……」
 小池が、殺された? 心臓麻痺じゃなくて、殺されたのか。
「あの野郎、貴重な精神剤をドカドカ使ってやがったからな。昨日の夜も俺の部屋まで来て薬が欲しいとぬかしやがって。基地の外に呼び出して楽にしてやったよ」
「あんたは、悪魔だ……」
 それを聞いた吉野は一瞬視線を落とした後、肩を震わせながらすさまじい形相で浜田を睨みつけている。浜田も、ヘラヘラした様子がいつの間にか無くなり、吉野と睨みあう。ふいに、手に持っていた煙草を地面に投げ捨てた。
「二度目だぜ。吉野二等兵」
 言い終わるか言い終わらないかの瞬間、浜田がポケットに手を突っ込むような動作を見せ
「っぐぅ!」
 銃声が部屋の中に轟く。次の瞬間吉野は足を抱えるようにして地面に倒れ込んだ。
浜田の右手には、ベルトに装着されたホルスターに収められていた銃が握られている。銃からは硝煙が上がっている。
 吉野の倒れた周辺の地面がみるみる赤く染まっていく。足を撃たれたらしく、苦悶の表情を浮かべながら必死で吉野は痛みに耐えていた。
「お前はほんっとに甘ちゃんだもんな。銃を持ってるくせに撃てやしねぇ。ま、殺しやしねぇから俺の言うことを聞いとけって。な?」
 吉野のすぐそばまで近づきながら腰を下ろし、諭すように浜田は語りかける。痛みでそれどころじゃない吉野を無視して、彼は言葉を続ける。
「言っておくけどよ、三度目は無いぞ。分かったな?」
 さっきまでとは一転して冷酷な表情で睨みつける浜田を見ながら吉野は、悔しさをにじませるように目に涙を溜め、足を押さえながら、小さく頷いた。
 満足したのか、無言で立ち上がって部屋を立ち去る浜田。彼が出て行った後しばらくして、左足を引きずるように立ち上がりながら、吉野も部屋を出て行った。
 しばらくして、辰雄はベッドの下から這い出した。
 怒るのは、とりあえず後回しだ。


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