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処女の秘孔は蜜の味 28



28 愛の逃避行

 やみくもに走っていくうちに、やがて見覚えのある光景が目に入った。陽もそろそろ暮れてしまいそうなころに、辰雄達はようやく街に戻ることが出来た。
 街を抜け、ペンションを目指す。とにかく安静に出来る場所が必要だった。アクセルを全開にして走り、街に残る瓦礫の山を蹴散らして走っていく。
「なんだ……?」
 ジープが、見る見るうちに速度を落としていき、アクセルを踏んでいるにもかかわらず、止まってしまった。メーターを見てみると、既にガソリンは空になっていた。悔し紛れに、ハンドルに拳を思い切り叩きつける。
「くそっ!」
「もう、いいよ辰雄」
 隣でぐったりとしているハユンが呻くように呟く。その目はうつろで、どこを見つめているのか、目で何を捉えているのかどうかさえ分からなかった。呼吸がまともに出来ないのか、喘ぐように喉元を小さく鳴らす。
「何、言ってんだよ。諦めんなよ」
 かけてやれる言葉が見つからない。
 辰雄もハユンも、激しい虚脱感に襲われ、それにからめとられて身動きが取れない。二人とも、もうとっくに精神的限界が来ていた。一旦力を抜いてしまうと、どんどん心が絶望へと引き込まれていくのを感じていたが、どうにもならなかった。
 力なくハンドルに顔を押し付けるように俯いていると、前方が一瞬光ったような気がした。反射的に顔を上げて前を見て、それから目を凝らして奥のほうを見つめる。
 タクシーが、街の中をのんびり巡行している姿が目に入った。
 何も変ってはいなかった。
 いつものように彼は、毎日この街の中を走っていたのだ。
 辰雄は夢中でジープのクラクションを鳴らし、ライトを点滅させた。しばらくして、タクシーが向きを変えてこっちに向ってきた。
 ジープが目の前で停まり、国安が降りてきた。ジープの中を覗き込んできた彼と目が合う。
「よう、久しぶりだな」
「何やってんだ、こんなところで?」
「愛の逃避行だよ」
「血だらけじゃないか。隣にいるのは……ハユンちゃんか? 大丈夫なのか?」
 ハユンがゆっくりと彼の方に顔を向け、無理やり笑みを作る。
「とにかくすぐに横になって安静にしないと。ペンションに連れて行こう。タクシーに乗っていけ」
 そう言ってから、国安がまずハユンを背負った。辰雄もふらつく脚で二人を追った。
 国安はハユンを後部座席に座らせると、運転席に飛び乗った。辰雄も後部座席に座ると、ハユンを抱きしめた。
 国安がタクシーを走らせる。いつの間にか陽は落ち、外は暗くなっていた。
 座席に座りながら、辰雄とハユンは肩をくっつけて寄り添うようにしていた。ハユンの顔は、既に蒼白を通り越して真っ白になっている。辰雄は黙ってハユンの手を強く握る。生きて欲しいと、精一杯の思いを込めて。
 ハユンは疲れ過ぎていた。この世界をこれ以上生きていくことに。いつの間にこんな狂った世界が出来上がってしまったのだろうか。浜田に撃たれた左肩の傷が、既にちっとも痛みを感じなくなっていることが、逆に腹ただしかった。
 ハユンは寝ているのか、瞼を閉じたまま微かに寝息らしきものを立てていた。
 タクシーを運転している国安に目をやる。彼は何も言わなかった。何も聞かなかった。あるいは何も考えていないだけなのかもしれない。でも、そんな彼の態度が、今の辰雄には不思議なほど居心地良かった。
「ん……」
 突然、彼女の唇から声らしきものが漏れた。目は覚めたがまだ眠いのか。それとも、もう目を開ける力も無いのか。彼女は目を瞑ったまま何かを囁いていた。自分の耳を彼女の口元に近づけ、何を言っているのか聞き取ろうとする。
 彼女がかすれた声で何かを呟いた後、震える手を辰雄の頬にゆっくりと添えた。
 彼女の命の灯火が、既に消えかかっているのが、弱く震えた手を通して伝わってくる。辰雄は彼女の言葉に頷くことも首を横に振ることも出来ずにいる。返答することを辰雄の今の思考の中に存在させている余裕はなかった。うっすらと微笑みながら薄く目を開けるハユン。辰雄も、顔中の力を振り絞って微笑みかける。辰雄の肩に寄り添っていた彼女は、いつの間にか辰雄の膝の上で抱きとめられるような格好になり、辰雄は真上から彼女の顔をじっと見つめていた。
 急に、弾けるようにハユンが目を見開き、次の瞬間彼女は辰雄の体に顔をうずめて激しく咳き込んだ。これまでのどんな発作よりも一段と激しい苦しみ様だった。辰雄の心臓は一段と激しく脈打ったが、それでも必死で彼女を抱きとめる。時々服に何かべっとりとしたものが張り付くような感触を覚えたが、それでも構わず辰雄はハユンを離さなかった。
 大事なものが彼女の体からつぎつぎと零れていっている。この世との境界線を乗り越えるラストスパートを、誰も、本人さえ望んでないのに彼女は駆けていた。
 何分ほどその状態が続いたのだろう。エンジンが焼き切れたかのように、ハユンは微動だにしなくなっていた。
「ハユン……」
 彼女はこの世界ではない、ひどくおぼろげであるが静寂なる世界へと旅立っていった。辰雄を置いて。
 途端にタクシーが大きくバランスを崩した。再び何事もなかったかのようにタクシーが走り出す。
 じっと横たわる彼女の横顔を見ていると、やがてタクシーが停まった。
「着いたぞ」
 なんとも間の抜けた声が車内に響き渡った。


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