ハイエナたちの掟 1
ケニーGの「BIRD」が終わっても、エミリーはカウンターに突っ伏したままだった。貢相手のホストから「恋ではなく仕事の付き合い」と告げられたのが、号泣の原因のようだ。エミリが働くガールズバーには、同じような境遇の女の子が何人もいる。
彼女の話では、二月前、初めてミナミにあるホストクラブへ遊びにいったらしい。それまでホストクラブになど興味などなかったが、店の友達にしつこく誘われて、重い足を引きずっていったらしい。その時横に座ったヒロキという男に心を奪われた。初回五千円だった料金が、二回目以降は数万円から、多いときで十万円くらいまで一気に上がる。彼女はバイト代が入るたびにヒロキの元に通い、高い酒を飲んだ。支払いで現金が足りなければ、ツケを意味する「未収」扱いになる。店に対してはホストが未収を肩代わりするため、客はホストからの取り立てに追われる。
「ヒロキが俺をナンバーワンにしてくれってゆうから、頑張ってきたのに」
エミリが洟を啜り上げる。彼女がこれまでホストに突っ込んだ金は二百万近くになる。
「ツケはどれくらい溜まっているんだ」
省吾がグラスを拭きながら尋ねると、彼女が右手を挙げて手のひらを広げる。
「百万……」
「どうするんだ?」
「ヒロキがもっと稼ぎのいい仕事あるから紹介してやるって」
「風俗か?」
省吾の言葉にエミリがこくりと頷く。
「それが連中の手なんだよ。お前もいい加減目を覚ませ。友達はもう風俗に落とされちまったんだろ?」
「でも、ノリコ、頑張ってるよ、ヨシユキのために。新しいお店でも店長に、どこまでできるかこれからが勝負やでって励まされたんやて」
「そのノリコちゃんはどれだけ溜めてるんだ?」
「三百万くらいかな。でも、夜の仕事終わるとヨシユキの店に行って、いつもラストまでなんよ。この前もルイ13世入れたってゆうてた。むっちゃ幸せそうやったで」
ルイ13世といえば、一本数十万円という超高級ブランデーだ。それを彼女はこれまで何本も注文してきたのだろう。ホストに何百万もの未収を抱え、途方に暮れる女の子をこれまで何人も見てきた。
「連中はグルなんだよ。ついでに言っといてやると、お前の店の店長も奴らの仲間だ」
「えっ、ほんま?」
エミリがテーブルに伏せていた顔を勢いよくあげた。ガールズバーに働きにやってきた店の女の子の一人にホスト遊びを覚えさせる。一人をホストにはまらせることができたら、あとは芋づる式に、店の子が次から次に誘い合ってホストにはまっていく。店の給料は系列店のホストクラブに流れ、女の子はホスト達に借金を背負わされていく。やがて借金まみれになった彼女たちは、同じ系列の風俗店に送られることになる。
「でも、ヒロキにお金返さんと……」
「踏み倒しちまえよ」
「けど、そんなことしたらヒロキが……」
「今までそいつに百万使ってんだろ? ツケでチャラにしてもらえ」
エミリが黙ってジンフィズのグラスに口をつける。
「マスター、慰めてくれる?」エミリが上目使いの目を向ける。
「いくらでも慰めてやるよ。喰いたい物作ってやる」
「ほら、やっぱりはぐらかすやんか。そんな慰めやったらいらんわ」
エミリが顔を大きく歪める。目から毀れた大粒の涙がテーブルに落ちる。
「わかったよ。店が終わったら付き合ってやる」
「ほんま?」
エミリの顔が明るく光る。さっきまで泣いていたのが芝居かウソのようだ。
「じゃあ、レバニラ炒め作っといて」
そういってスツールから飛び降りるとショルダーバッグから携帯電話を取り出して店の外に飛び出していった。親に連絡するつもりなのだろう。エミリはまだまだまともな女の子だ。
有線のチャンネルを変える。エミリがいなくなった店内に静かなジャズが流れる。閉店まであと一時間。もう客は来そうにない。
冷蔵庫から生レバーとニラを取り出す。料理鋏でレバーとニラを切り、ステンレスのボールの中に落としていく。フライパンをガスレンジに置いた時、来客を知らせるドアベルがからんと鳴いた。
「すぐにできるからどこにも行くなよ」
そう言って顔をドアに向けると、二十代半ばの女が立っていた。
「これから何か作ってくれるの?」
ドアの前から女がほほ笑んでくる。アーミーのTシャツに白のショートパンツ。ファッションはアメ村スタイルだが、この店の客にしては落ち着いた感じだった。
「さっきまでいた知り合いが戻ってきたと思ったもんで」
そういって、省吾が女に席を勧める。いい女だ。
女がアーリータイムズのロックを注文する。省吾は透き通った氷を取り出すと、ナイフで手早く丸いボールに削った。
「器用ねえ」
バーボンに浮かぶグラスの中の丸い氷を転がしながら、彼女が優雅に笑った。省吾は熱したフライパンにごま油をたらし、レバーとニラを放り込んだ。
「この店のお勧めなんですよ」
「私にもいただける?」
「もちろん」
手早く材料を炒め、二つの皿に盛って、その一つを女の前に置いた。
「材料が余る予定だったので、これはサービスだ」
「本当にいいの?」
そういって箸を取ると、ひとつまみ口に運んだ。
「おいしい」
女はにっこり笑い、バーボンを一口のどに流し込む。
「大阪の方じゃないね」
「銚子からきたの」
「ああ、千葉県の」
「田舎者と思ったでしょ」
「とんでもない」
「あなたも標準語ね」
「生まれは横浜。二十歳の時にこの街に来てちょうど十年になるんです」
ベルの音が鳴り、エミリが店に入ってきた。
「あ……いらっしゃいませ」
エミリが客に微笑みかける。
「お前はいつからここの店員になったんだ?」そういって、もう一つの皿をエミリの前に置いた。
「おいしかった」
女が空いた皿に箸をおいて両手を合わせた。
「ねえ、マスター」お代わりのロックに口をつけて、彼女がカウンターに身を乗り出した。
「りりぃって女の子、知ってる?」
「それって本名?」
「本名は本間千賀子。歳は十七歳。このあたりにいるって聞いたんだけど」
「どっちの名前も聞いたことないなあ」そういって省吾はエミリを見た。彼女も首を横に振っている。
「もしわかったら、この番号に電話して」
差し出したポストイットに携帯の番号と、女の名前なのか「ゆうこ」とひらがなで書いてある。女は金を払うと、振り返ることなく軽快に店を出て行った。
「新手の逆ナンや。マスター、誘惑されてたんやで。もっと気ぃつけな」
エミリがポストイットのメモをひらひら空中で振りながら顔を顰めた。